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年賀状の滝 千葉県の滝(毎年)+県外の滝少々 年賀状は、千葉県内の滝の画像で作成することにして、長年やっておりました。 ところで、ふと気づいたのですが、この年賀状シリーズ、みんな送ってしまうので、完成品が私の手元に見当たりません。 思い立って、記録を作ることにいたしました。 |
3・4年前までは、ソフトのデータがあるので、何とか分るのですが、それ以前になると、記憶がなくて、どんなのだったのか全くあいまい。特に、2000年前のものは、なにしろ前世紀の事ですので、年度も何も全然忘れてしまっております。おぼろげな記憶により復元。大体この辺の年だったよなー、ということで、あてはめました。 滝の選択は、最初のころは、滝の成因別に選定して揃えていたと思うんですが、2000年から、滝面のタイプ別に、揃えようとしています。 2002年から、県外の滝も同時に作るようになった。 滝の説明文も、最初のころは、名前と成因で一行分だったと思います。今回作るにあたり、千葉県優良滝図鑑としても使えるように、解説・紹介をどっさりつけてみました。 位置は、緯度経度をつけますが、世界座標で付け直そうとしてますので、後でまとめて入れることにします。 ・所在市町村は、当時の名称です。 |
<年賀状にした千葉県内の滝> この下↓ ・・・・長−いファイルになってしまったので、途中へのジャンプをつけました。 |
景観の用語補足 :滝面の正面から見た縦横比の種別の用語を補いました。 滝の落差の後に、この滝面の縦横比種別をつけると、イメージが湧いて、便利ではと思います。 壇瀑:だんばく:縦(滝面の高さ)の長さが、横(滝面の上面幅)の長さの、0.5以下。 簾瀑:れんばく:同上 0.5-1.0。 幕瀑:まくばく: 同上 1.0-2.0。 幟瀑:しょくばく:同上 2.0-5.0。 帯瀑:たいばく:同上 5.0-10.0。 条瀑:じょうばく:同上 10.0以上。 数値の、0.5、1、2、5、10 は、対数法で行けば、0.5,1,2,4,8・・の方がいいのでしょうが、 こっちのほうが、10進法の世界で、感覚的にいいかなと思いまして、採用しました。 2、4、8倍でも、5、10倍でもどっちも地学的にはたいした意味がないという点で同じですから。 名前のイメージ:壇:お寺の土台 簾:竹のひよけすだれ 幕:時代劇の大店の日除け幕 幟:神社の幟旗(のぼり旗) 帯:着物の帯、 条:縄のれんの縄 ・・・のイメージでつけました。 ・・・詳しくは、私の滝の景観分類の提案を参照。 |
<年賀状にした千葉県内の滝> | |||||||||||
2021年年賀状 県内 田淵不動滝 市原市田淵 成因:河道掛け替えによる人工滝 | |||||||||||
本年もよろしくお願いいたします。 田淵不動の滝 地図は、市原市発行2500:1地形図。河川位置や川廻しトンネルを修正。
市原市田淵、養老川支流田淵水路南谷に懸る。 チバニアンで有名になった田淵の地磁気逆転地層露頭の近くにあり、遊歩道が計画されていて、その関係で調査しました。 今行くと遊歩道がないので、泥だらけになる。 落差15m。地層は国本層泥岩層 。流域面積0.52ku ・・・流域面積が少なく、大雨後以外はこんな風なチョボチョボ水量で、滝タラズすれすれです。 ただ、滝のある川(田淵水路南谷)は普通の支流谷ではなく、特殊な成因の谷です。 すなわち、以前、本流(養老川)流路は現在より東側にあり、位置図の南東端の山地に沿って、南から東側へ大きく穿入蛇行していました。この蛇行した流れは、図の北端にある谷の位置にそって、東側から現流路の位置へと流れて来ていました。 その後、当然というか、蛇行した本流間の狭くなっていた場所(図の不動滝の東にある住宅付近)が短絡しました。時期的には段丘面では久留里V面の後期頃(大雑把に5千年ぐらい前)に当たります。 短絡後、養老川本流の流路は、さらに移動して、30m程下刻しつつ、流路が西方に平行移動して、現在のように直線に変化しました。 その結果、30mほど高くなった本流蛇行跡を再侵食した2本の小谷(図に示している支流の谷)が形成されました。 つまり、不動滝の懸かる小谷は、段丘化した本流の穿入曲流谷跡を再度侵食してできた支流谷ということになります。 本流の河岸段丘面を侵食する支流谷は、どこにでもあるありふれた地形ですが、本流の段丘化した穿入蛇行跡の谷底面を侵食する支流谷は、谷の形が違うし、存在も稀ですので、なんだかよく分からない谷地形を作ります。上総丘陵地の河川の特徴をなす地形とも言えそうです。 一見上流に広い谷底があって水量もありそうな川なのに、流域面積が狭くて、水量もせこいといった所は、この種の谷を流れる川によく見られる特性といえましょう。 この滝について、元々は、2段からなる自然の滝があり、上段の滝上に不動堂があって不動滝と呼ばれていたと思われます。しかし、田淵水路南谷の谷底を水田化するにあたり、上流で新たに河道を造成し、水路を引いて以前の滝の下流の峡谷崖から落下させて人工滝とする工事が行われました。 時期は中世と推定されます。 この工事の結果できた滝が現在の滝で、当然人工の滝です。こうゆう人工の滝は信仰がないので、通常名前がないものなのですが、すぐ近くに自然の滝があったので、人工の滝に名前と信仰が移り、不動滝と呼ばれるようになったと考えられます。 滝の下流の南谷と、北谷は、江戸時代に連続型川廻し新田に改変され、面白い地形が見られます。 |
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【補足】 現在作成中。近日中に完成の予定。 (^_^;) | |||||||||||
<滝の諸元> 滝の名称 (田淵)不動滝 (地元では何にも付けない不動滝ですが、不動滝は世の中にたくさんあるので大字名をつけます) 所在地 市原市田淵 小字不動滝 水系 養老川水系支流田淵水路 南水路 (滝のある支流には、名前が無いので、私が論文等で「田淵水路・北水路・南水路」と仮称。 地図 2.5万「大多喜」 緯度経度 北緯35度17分39.80秒 東経140度08分51.90秒(世界測地系) 流域面積 0.52平方ku 瀑布帯 単瀑15.0m 地層 上総層群国本層 岩質・構造 泥岩層 逆層 成因 人工の滝・上流で流路変更による。 滝面 面滝 帯瀑 上部溝形副滝滝面 直下型滝壷 年代・同期 田淵集落の開設・滝より上流の南水路沿いの水田開墾と同時:中世に遡ると思われる。 変遷 下部:全面滝壺の形成以外滝面の後退はほとんど認められない。 上部:滝面の緩傾斜化、溝状副滝の形成が認められるが、後退量は小さい。詳しくは未調査。 <滝の紹介・名称>
一般的には2019年のチバニアンガイドセンターが設置されてから地磁気逆転露頭への遊歩道が設置・公開され、滝の一部が眺められるようになり、案内パンフレットに露頭への道すがらの景観として紹介され、広く知られるようになりました。 滝の学術的紹介は、成因・時期について、吉村・八木(2021)が概要記載をしています。 (以下工事中) 滝の関係地の様子は、右図の通りです。 駐車場・・・・ 滝を見ることができる。 土橋付近からの景観は、下の写真図に示しました。 |
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<参考文献> 吉村光敏・八木令子(2021)養老川中流、市原市田淵の地磁気逆転地層露頭周辺の地形景観とその成り立ち 千葉中博博研究報告 15巻2号、p61-72 |
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2018年年賀状 県内 黒滝 君津市折木沢 成因:支流型の滝+硬岩型の滝 | |||||||||||
謹賀新年 2018年元旦 本年もよろしくお願いいたします。 折木沢の黒滝 君津市折木沢所在。東大演習林内にあり、小櫃川水系支流猪ノ川の中流にかかる。 黒滝瀑布帯は、本滝10m 上滝1:1,5m上滝2 0.5mの3連の滝よりなる。 画像は、本滝。豊水時の景観。 豊水時の景観で、普段はチョボチョボ。撮影したのは1981年5月18日。 考えてみると、もう40年も前の状態ですので、滝下の様子は現在とは大分変わっているかも知れません。 山ヒルの宝庫らしい。 いやあ、昔は良かったです。そのころから、東大演習林は山ヒルで有名でしたが、黒滝には山ヒルいませんでした。近年は山ヒルが怖くて、全然行こうと思わないです。 |
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主滝は、面滝 壇瀑 張出型複合滝面で、主滝面が中央張り出した崖で、両岸沿いに2つの副滝が掘り込んでいる。 主滝は下部が垂直で6m、上部は黒滝層の層理面に沿った斜瀑になる。副滝は掘り込んで垂直な滝面です。 右岸側の副滝の直下は、滝壺があったと思われますが、巨大な岩塊が滝下に多数落ちているため、堰止められた砂が溜まっており滝壺は埋没しています。 堰止めによる埋没で、河床面は2m高くなっています。この岩塊の落下は自然のものでなく、林道やトンネル掘削設置工事の際に、河床に廃棄された岩塊ではないかと思われます。 黒滝は、大正時代の県誌や郡誌には記載がない山奥の知られざる滝だったのですが、戦後になって上総層群の研究に際し、基底の不整合の模式地と地層名として黒滝不整合・黒滝層と呼ばれて最初は地質文献で使われた名前が一般化した珍しい由緒の滝です。 演習林の敷地内で一般には立ち入れず、山ヒルの宝庫としても有名。 滝としては、久留里X面から現河床への下刻により、下刻が本流の小櫃川から支流の猪ノ川におよんできた下刻の先頭(遷急点)にあたり、支流型の滝です。 ただ、滝の地点に固結した黒滝礫岩層が露出し、その礫層によって滝の後退が一時的に止められていますので、硬岩型の滝の性格も持っています。 |
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<滝の諸元> 滝の名称 (折木沢)黒滝 (ほかにも黒滝があるので大字名をつけます) 所在地 君津市折木沢 水系 小櫃川水系支流猪ノ川 渓流名 猪ノ川 地図 2.5万「坂畑」 緯度経度 北緯35度12分34.17秒 東経140度06分2.90秒(世界測地系) 流域面積 5.08平方ku 瀑布帯 本滝10m、上滝1:1,5m、上滝2:0,5mの3連。本滝を黒滝といいます 地層 上総層群黒滝層 岩質・構造 礫岩 順層 成因 支流型の滝・硬岩の滝 滝面 面滝 壇瀑 張出型複合滝面 両岸副滝 直下型滝壷(埋没) 年代・同期 久留里X面の下刻期に対応。本流の不動滝と同期。 変遷 小櫃川本流の久留里X面の下刻に対応。本流からの後退量 約3,400m |
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千葉県の滝では珍しい硬岩の滝で、上総層群黒滝礫岩層が、その上位層の黄和田層泥岩層に対して硬岩層として機能して滝が形成されています。 具体的に黒滝の滝面がどのように変化したのかを復元してみました。 特筆すべき事は、本滝の下流左岸沿いに以前の河床跡がステージ1として残っていて、下流からの下刻により最初に滝が作られたのが、数字の1の位置あたりであったことが分かりました。 1の所にできた滝の形は、比較的軟らかい黄和田層の泥岩を掘り出し取り去って、硬い固結した黒滝層礫岩の表面をむき出しにした、黒滝層の層理面を表面とするナメ滝であったと考えられます。 その後、そのナメ滝が1→2方向に、黒滝層の層理面に沿って水平移動しながら移動して本滝の主滝位置(ステージ2)まで動いたことになります。 ステージ2の時は、主滝の上部の一部が残るナメ滝 →ステージ3で、その下部が垂直に掘られた滝(現在中央部が主滝として残っている) →ステージ4(現在)で、両岸に垂直の副滝が掘り込まれている というように変化しています。 これらの変化から、滝は、ステージ2→4の動きのように、流路に沿って下流から上流に動くのが常識と思いますが、ステージ1→2のように、流路の側方に動くことがある・・・滝の側方移動という奴で結構見られます・・・ということが分かります。 |
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<補足:猪ノ川の川廻しと黒滝の年代> 黒滝を作った本流の下刻はどの時代のものかを知るためには、黒滝と本流の段丘面との関係を調べる必要があり、地形的には河床縦断面での比較が必要です。 ところが、左図に示したように猪ノ川には川廻し地形が多く、本流と黒滝との間にも比較的大きな川廻しが2箇所あります。 川廻し地形のため、河床縦断形が改変されてしまっていますので、黒滝との比較ができません。 というわけで、川廻し以前の地形を復元した猪ノ川の河床縦断形を描いてみました。 ↓ 下図 川廻しの結果、猪ノ川は流長が11kmから8kmと2/3に短くなっていて、黒滝の下流では長さが1/2になっています。 現在の黒滝から下流部が平滑岩盤河床でなく、河床はえぐれた形になっているのも、その故かもしれません。 川廻し前の河床復元から、黒滝の上流の河床断面が、本流の標高80m付近の河岸段丘面(久留里X面)に当たることがわかります。 そのことから、黒滝の形成が始まった年代は今から2000〜3000年前と推定されます。 (以上) |
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2016年年賀状 県内 入知坊の滝 大多喜町筒森 成因:川廻しの滝 | |||||||||||
謹賀新年 2016年正月 本年もよろしくお願い致します 入知坊の滝 大多喜町筒森所在。養老川水系筒森川にある滝。落差3.2m。 一目見て分かる川廻し滝です。 水がきれい。近くに上総掘自噴井戸もある。 川廻しの滝は本来名前が付くことはなく、名前がないので、「入知坊」という滝のある小字名をとりました。 最近川沿いが、「もみじ谷」という名で観光開発されています。簡単に行けますが、5〜11月は山ヒルもでるし、12月以降がお勧め。 <滝の諸元> 水系: 養老川水系大きな支流 夕木川(筒森川)。 流域面積: 5.4ku 。 位置 :北緯35°13′18.55″東経140°09′06.64″(世界座標) 地層と滝面岩質:上総層群黄和田層 滝面岩質は白色泥岩層で緩い順層、 滝面は層理面より急傾斜。 滝面形状: 滝高3.2m、川幅5m。 景観:壇瀑・全面滝壺、流域が広いので、 洪水時には迫力。 成因・変遷: 川廻しによる人工滝。滝の工事後、全面滝壺が掘られ、 滝面に浅い副滝が形成。なお、滝上のトンネル天井が崩落。大きなV字谷が 形成。 交通: 簡単に車でいける。 |
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<壮大な欠陥工事> この滝の売りは、滝上空の壮大な両岸の絶壁です。滝両岸が、凄く高い切り割りの崖になっている⇒右図参照。 人工でこんなに切るのは割に合わないので、川廻し当時は、トンネルになっていたと思われる。 そのトンネルの天井が崩落し、連鎖的にトンネル上の尾根の岩盤が崩れ、トンネル上の尾根稜線まで落盤して、切り割りになったと思われます。 一種の欠陥工事ですが、房総半島の江戸時代川廻しには、欠陥工事の結果できた面白い地形が、いろいろ残されています。 【入知坊の滝:年賀状文面の補足】 ・滝の紹介 この滝を最初に紹介したのは滝探索家の木平 勉氏で、1999年頃。木平氏に所在を教えて頂いて、私がHPに滝の地学内容を紹介したのが2003年頃。情報24 http://chibataki.poo.gs/sinzyoho/nyutibou/nyutibou.htm で紹介。当時は、全くの無名の滝で、今昔の感がある。 近年、川沿いが、「もみじ谷」という名で観光化された。観光開発後、う沢喜久雄・鵜沢幸子(2009)「ちば滝めぐり」崙書房に、「もみじ谷の滝」という名前で紹介されているので、交通ルート等は参照されたい。 |
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・位置と川廻しの紹介 江戸時代の川廻し(曲流短絡による新田開発工事)によりできた滝である。下の画像で、右の山を川が曲流していた所を、トンネルを掘って短絡し、新流路が、川が短くなった分の落差で滝となった。短絡した曲流河床上に盛り土して水田化し、その谷の跡が手前の滝壺の所に右手から合流している。 ・滝そのものの見所 この滝は、滝が作られた以後、変化した地形が良く見えるのも見所である。 (1)短絡した滝の下にできた全面滝壺:滝ができたことで、その後の洪水で掘られた大きな滝壺で深さも3mぐらいある。 (2)滝面に形成初期の溝形副滝:滝面はナメ状の斜瀑だが、左側に甌穴型の溝が浅く掘れている。一様な平滑な滝面が作られた後、溝が掘られて滝の形が変化していく初期の形である。 |
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入知坊滝周辺の滝と川廻し地形 川沿いに2つの蛇行跡(自然に短絡した蛇行の跡)と入知坊滝の上流にもう一つ川廻しがある。 この川廻しは下流側が半分埋め立てられ、もみじ谷の駐車場になっている。 この川廻しの下流に支流の懸谷の滝がある。 遊歩道もなく、流域面積の0.14kuと滝タラズすれすれの水量に乏しい滝なのであまりおすすめしない。 |
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2015年年賀状 県内 石神不動滝 市原市石神 成因:川廻しの滝 |
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本年もよろしくお願い致します 位置は2.5万地形図「大多喜」。 石神不動滝 図の赤点に所在。市原市石神地区、養老川支流に懸かる滝。地層は上総層群梅ヶ瀬層。砂勝ち砂泥互層。 2連の小滝で、比高4.8m。2枚の薄い泥層が緩い逆層で滝の上面を作っている。 一見自然の滝である。しかし、空中写真で見ると図のように蛇行した旧川跡(2.5万地形図に補記した緑色部分)が見られる。複数の蛇行を短絡し、川跡を水田化した連続型川廻しで、川廻し工事による人工の滝である。 |
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2014年年賀状 県内 名称不明の滝 銚子市小浜町 成因:海食崖型の現生滝 より詳しい情報は、下総地方の滝個別情報カード を参照してください |
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本年もよろしくお願い致します 恒例 滝シリーズ 秘瀑 屏風ヶ浦の断崖に懸かる滝 銚子市小浜町所在 位置は2.5万地形図「銚子」。 |
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最近調査中に発見。 存在自体がほとんど知られていない。名前があるのかも不明。 ← 2013年撮影の空中斜め写真をみて、存在を確かめました。 滝高推定12m。 地層は犬吠層群の小浜層、凝灰質泥岩。 帯瀑直下型で、小さな上滝が1つある。滝面の上半部は浅く掘り込んでいる。 滝下には滝壺やノッチはない。⇒海食崖の後退速度より、滝面の後退速度の方がやや早いということで、すぐ近くまで来ている消波堤により、波浪侵食力の減衰の影響が出ているのかもしれません。 滝下には未到達。滝下から写真撮った人はいないと思う。 陸側から見えるところは1カ所のみ・・・最初の画像。 ここも油断すると転落死亡の可能性あり。 |
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海食崖型の懸谷(図のC)の滝で、侵食されつつある海食崖に懸かる例は珍しい。 下総台地を削る侵食谷が懸谷化したもの。 流域面積は0.6平方kmしかないが、常時水量はありそう。 水量の多くは、下総台地面下の砂層(香取層)に浸透した地下水が小浜層との間の不整合面で湧出することによる、地下水起源と思われる。 |
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2013年年賀状 県内 荒川の滝 南房総市荒川 成因:地すべりによる河道変更の滝 より詳しい情報は、滝の個別情報カード 荒川の滝 を参照してください |
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本年もよろしくお願い致します。 南房総市荒川 荒川の滝 滝高 3.5m 地すべりによる河道変更の滝 |
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嶺岡地溝帯の平久里川支流荒川にある滝。流域は地すべり地で、地すべりにより河道が押され、海山起源の堅硬な玄武岩体の小山に押しつけられ、層厚25mの緻密な玄武岩溶岩層を20mほど峡谷を掘り削ったが、あと一息が足りずに滝となっている。小さいが面白い滝。 滝面は溶岩層の割れ目に沿って両溝型となり、滝面は溶岩層とクリンカー部(溶岩層の上面下面の破砕部分)の強弱に対応した複雑な形状である。 上滝下滝のない本滝だけの単瀑布型瀑布帯で、滝の下流は、全面滝壺後退型の瀞状廊下となっている。 この形は、滝の侵食形式でいうと、滝直下の全面滝壺での侵食のみによって滝面後退が起こる平行移動型に分類され、川の下流、平野部の滝などでよく見られる型で、定性的に言うと、「滝面において岩石抵抗力に対して、河川の侵食力が相対的にかなり小さい場合」といえる。 この滝は川の上流山間部にあるが、1.荒川の流域全体がなだらかで、砂しか流していない侵食力の小さな川である、2.岩石が、房総で一番といえる堅硬緻密な玄武岩で、侵食抵抗力が非常に高いためと考えられる。 |
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2010年年賀状 県内 涼源寺の滝 南房総市白浜町塩浦 成因:海食崖の滝 |
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平成二十二年 正月 本年もよろしくお願い致します 涼源寺の滝 所在: 南房総市(旧白浜町)塩浦 大体の位置はここ。
・・・正確な位置は、地図参照 景観:条瀑 歐穴溝状階瀑 流域面積:0.34ku 落差:約15m(未測定) 岩質:千倉層群白間津層の砂泥互層 緩い逆層 滝の成因:海食崖型の滝、海食崖の時期=滝下の段丘面の時期 ・・・沼U面 4950年前 変遷:海食崖面に形成後、歐穴状の2つの段を削って後退。 約10m後退(未測定)。 行き道:国道410号を白浜より千倉方面に進み、西塩浦のバス停を100m程過ぎたところに「白浜鍾乳洞」の看板がある、それを左折。目の前のY字を右に約200m道なりに進むと「白浜鍾乳洞」の看板がありここから、畑脇の細道を100mほど。 滝の初出:白浜の鍾乳洞脇の滝として昔から知られている。 |
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2009年年賀状 県内 袋倉川東股の無名滝 鴨川市 袋倉川水系 成因:崩壊による河道変更の滝 |
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平成二十一年 正月 本年もよろしくお願い致します 袋倉川東股の無名滝 名前がわかりません・・・名前を知っている人にめぐり合わない。 所在: 鴨川市東町 袋倉川本流に合流する大きな支流(名前がわからないので東股と呼んでいる)の上流にある。 大体の位置はここ。 位置:北緯35゜08′45″ 東経140゜09′16″〔世界座標〕 ・・・・正確な位置は、地図参照 景観:3連の瀑布帯 流域面積:1.03ku 落差:17m(画像は下の11.2m分) 岩質:安房層群天津層 泥岩 順層 滝の成因: 崩壊による河道変更の滝 本来の川の流路は画面手前を左から右であったが、左手の上流の手前側の谷斜面に大規模な崩壊が発生し谷を堰き止め、堰止湖が発生。 湛水した水面が20m近く上昇して、向こう側斜面の枝尾根を溢流し小支流に流入して、支流の懸谷滝を本流の水が落ちるようになった。 地形学の用語で言うと、「谷側積載」の滝という、ほとんど誰も知らなさそうな呼び名の地形の一種・・・現象そのものはそんなに珍しいものではないが。 補足: 画像では下の3連,11.2m分が見える。この部分は、溢流以前の小支流の懸谷滝にあたる。泥岩の順層の層理面に規定された滝面となっている。 滝の上は画面左手に曲がり、溢流落下部分で4.8mの垂直の滝と大きな滝壺がある。 行き道: 地図参照。下流側から清掃センターの前を通って、浜荻林道をつめる。以前は滝の前まで車でいけましたが、大雨の崩壊により林道上から崩れてきた土砂で林道が埋まり、F1手前から歩きになります。 F1〜F3がありますが、F2(2連9.6m)も立派で、曲がり溝型副滝の滝面を持つ面白い滝です。 なお、ご覧のように、なかなか良い滝ですが、袋倉川は山ヒルの巣窟で、都会人の入山は冬季のみでしょう。 滝の初出: この滝は、文献で紹介されたことがない。私のHPが初出 ・・・その後、う沢喜久雄氏が、雑誌 ぐるっと千葉2004-3月号のp126-127、『滝の旅人39回 袋倉右俣の無名の滝三つ』 で紹介されたのが、活字になった最初かも。 もともとは、滝人間 並木健祐氏に所在を教えて頂きました。(19970310調査) |
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2008年年賀状 県内 長尾川河口の滝群 南房総市(旧白浜町) 長尾川水系 成因:地震隆起による本流型滝 |
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謹賀新年 本年もよろしくお願いいたします。 2008年正月 長尾川河口の滝群 今年ご紹介の滝は、最近見つけた、長尾川河口部の滝群です。 ・・・今年はショボイ滝ですみません。内容はかっこいいのですが、外見はダメですね。 所在:房総半島南端、南房総市白浜町 位置:F3、北緯34゜54′38.38″ 東経139゜52′17.25″〔世界座標〕 2.5万地形図:布良。大体の位置はここ。 景観:落差10mの3連の壇瀑(上記参照)よりなる瀑布帯 地質:千倉層群布良層 砂泥互層。 流域面積:16.79ku 滝の成因:。 長尾川は、巨大地震による隆起海岸段丘面(沼U、V、W面の3段)上に延長川を作って流れている川で、延長川は岩石段丘を下刻している。 大地震の際の土地隆起により、地震後に隆起分の河川下刻がおこり、新河口から内陸に向かって、遷急点(滝)の移動が生じ、遷急点より上流の河床は地震隆起による段丘面、下流の河床縦断は隆起後の海面に対応するはずである。 長尾川河口部には3つ滝があり、F1は大正関東地震(1923年、現海岸を形成)、F2は元禄関東地震(1603年、沼W面を形成)、「大淵」といわれるF3は、約2000年前の地震(沼V面を形成)後の遷急点の移動により形成されたと考えられる。 滝面:画像参照 F1 大正地震(1923年)による滝:下図の銀鱗橋から撮影。 橋は、七島橋 1mぐらいしかなく、ショボイ。普通はこんなの滝とはいいませんね。滝より上流の河床が大正地震前の海岸(大正段丘)に対応 F2 元禄地震(1703年)による滝:下図の元禄滝2です。 2mぐらいかな。 滝より上流の河床が沼W面(元禄段丘)に対応 F3 大淵 約2000年前の地震による滝:手前の全面滝壷が、大渕。滝は、4mぐらいある。滝上の河床が、沼V面相当 滝下の河床が沼W面対応 行き道: F3(大渕)の上の長尾橋が国道です。交通の便、超よし 川沿いに遊歩道があり、長尾橋の上のめがね橋までの川沿いが公園として整備されています。 滝の初出: この滝群は、滝人間君島安正先生に所在は教えてもらっていたが、低かったので、最近まで無視していました。 ところが、安房の滝を見直していて、そうだ、大地震との関係がわかるんじゃないかと思って、見に行ったら、ひとめで関係がばっちり・・・・下図参照。 ただし、 過去の地震とこの滝群が関係あるということは、私が初めて発見したことなので、全然知られていません。公園として整備していますが、地元の人はおろか、町役場の人も、地震と関係ある地形だとは知りません。 説明版を設置して、宣伝したら観光スポットのになるかも。 近くにある、屏風岩や布良の海食洞などより、面白いスポットだと思います。 |
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2006年年賀状県内 牛掘滝 市原市 養老川水系 成因:川替えによる人工滝 滝面:全然未侵食 |
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謹賀新年 2006年 正月 今年もよろしくお願い申し上げます。 牛堀滝(別名 うわばみ滝):ちょっと珍しい人工滝(川替え滝) 所在:市原市黒川 養老川水系梅ケ瀬川の支流 位置:北緯35゜15′15″ 東経140゜09′02″〔日本座標〕 2.5万地形図:大多喜。大体の位置はここ。 景観:落差7.5m・幟瀑 壁状人工瀑・川替え滝 地質:上総層群梅ヶ瀬層砂泥互層。 流域面積:0.39ku 滝の成因: 右手に谷が続くことと、滝面が水食溝が無く、自然の滝のような美しさがない事から予想されるように、人工の滝です。 川廻しの滝(曲流短絡)の滝でなく、この上流に川廻しによる新田集落を作ったので、道路が必要になり、本来の流路の15m側方に人工河道を掘り下げて流路を平行移動し、従来の谷底流路部分を道路にした、川替えによる人工滝です。 詳しくは、こちらを参照してください。 こんな手の込んだことをしたのは、8mの滝(本来の牛堀滝)があり、その滝の滝壺と滝前面の空中を8m埋め立てて道路を作るしか余地がなかったため。画像の現在の滝の15mぐらい右手に、以前の滝の跡があります。 川替え滝は結構あるのですが、川底を道路にするのは珍しく、類例の少ない人工滝です。時期は未調査でまだ分かりませんが、明治以降のように思います。 滝面:未侵食。滝面の最上部が一部砂岩層部分がえぐれているだけで、未侵食。 行き道:観光ルートにもなっている梅ケ瀬川沿いの林道から分かれ道、5分もかからないので、所在地が分れば簡単に行けます。 なかなか良い滝です。 もっと紹介されてもいいのにね。 滝の初出: この滝は滝人間木平 勉さんが紹介。所在を教えてもらいました。 |
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2004年年賀状 高宕大滝 君津市 小糸川水系 成因:本流型の滝 滝面:張出し型 この年は、県内のみ。・・・県外の滝は作らず。 |
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謹賀新年 2004年正月 本年もよろしくお願い申し上げます。 高宕大滝 所在:君津市怒田沢 小糸川水系高宕沢 位置:北緯35゜12′06″ 東経140゜00′00″〔日本座標〕 2.5万地形図:鬼泪山。 大体の位置はここ。 地質:安房層群安野層 泥岩逆層。 流域面積:0.99ku 流域面積は房総の滝では大きい方なのですが、上流の行者の滝上で怒田沢用水にほとんどが取水されていて、普段はささやか。 景観: 落差12.5m・幟瀑 壁状急斜瀑・張り出し型滝面の滝 小糸川支流高宕沢にあり、千葉県君津市怒田沢所在。すぐ上流に3.5mの上滝があり、比高16mの瀑布帯をなす。 小糸川流域には新旧の2つの遷急点があり、新期遷急点に当たる瀑布帯の本滝である。 成因:支流型の滝 滝面の形:面滝急斜型で、滝面中央が下流側に突出する張出し型である。 張出し型になっている理由は、断層弱線によると思われる。 美しいとはいえませんが、豪快な姿で、房総有数の滝と思います。 行き道:滝上の林道の橋から、踏み跡があり、左岸の急な谷斜面を下る踏み跡がありますが、上り下りと安全確保に、ザイルを使うべきでしょう。 滝の初出:『房総の山』かな?・・・もっと古い高宕山の案内記にあるかもしれません |
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2003年年賀状 大戸場の滝 君津市 小糸川水系 成因:本流型の滝 滝面:面滝複合型 岩質:砂勝ち砂泥互層 | |||||||||||
謹賀新年 本年もよろしくお願いいたします。 2003年元旦 君津市 大戸場の滝 2連、10.5mの連瀑瀑布帯 本滝 落差7.5m・簾瀑 下滝:3m・壇瀑 「県民の森の大滝」として親しまれている滝。写真では立派だが、豊水時の状況で、普段は水が多くない。 滝壷が深くて、泳げれば水遊びに好適。滝もステップがあり登ることができる。 滝名:滝の所在地点の小字「大戸場」による。県民の森では、大滝といっている。 所在地:君津市松節(清和県民の森) 水系:小糸川水系、支流 渕ヶ沢 位置:東経140°01’23.7″北緯35°10’26.2″(日本座標) 2.5万地形図 坂畑 大体の位置は、このあたり 流域面積:2.65ku 岩質:三浦層群清澄層の砂勝ち砂泥互層 記録:「房総の山々」第一版 ではないかなあ。 成因:本流型の滝 時期:段丘面との対比がなされていないので、不明。 変遷:滝の下流側には、泥岩層が無く、砂岩層を削って後退してきた遷急点が、泥岩層によって一時停止しているもの。下の断面図と鳥瞰図を参照。2つの滝ともに、頂上部に泥岩層があり、そこから滝となっている。下滝などは、ほんの3-4cmの厚さの泥岩層である。 変化: 本滝:面滝 複合型副滝円弧状 急傾斜型 滝壷あり 下滝:面滝 複合型副滝歐穴型。2つの滝ともに、主滝の滝面を副滝が侵食中で、深い部分滝壺を形成している。本滝の滝壺は、主滝に対応した滝壺から、副滝に対応した滝壺へと拡大している。 行き道:清和県民の森のキャンプ場前に、橋がありその下。橋の近くに滝への道案内がある。 滝の初出: この滝は、郡誌に記載されていない。記録の最も古いものは、「房総の山々」第一版で、松節の大滝という名前で紹介されたものであろう。その後、木更津市在住の故安田淳一氏が毎日新聞に紹介された。滝の名称は、君島安正氏が調査されて採録。 |
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見所:現地で、上の地形地質の図と実物を見比べてください。 <地質が滝を作る水の働きにどのように抵抗しているか>・・・これしか見ない人が多いので困るのだが・・・・滝は泥層、砂層でできています。2つの滝とも、滝の頂上は泥層になり、特に下の滝は大部分砂層だが頂上に10cmぐらいの厚さの薄い泥層があって、そこから滝が始まっています。泥層が砂層よりやや硬くて滝を作る層(造瀑層)になっているわけですね。また、泥層と砂層で滝面の微地形が違っているのも分ります。泥層は断面が上に凹になる急な滝面を作り・・地層面に垂直な節理の割れ目にそって滝面ができるので・・・砂層は、上に凸な緩やかな滝面を作る・・・粒になって剥離するため。 <水の働きで、どのような地形を掘り出しているか>・・・滝の表面の地形を見て、地形分類して見ましょう。 下滝では滝面左側の、本滝(上の滝)段では右側の滝面が破壊されつつあり、新旧の滝面(主滝と副滝)があることが分かります。つまり、主滝面を副滝が削っている最中であると、判定できます。 すると、副滝の部分でどんな地形と作っているかをみると、副滝の円弧状滝面と、歐穴状の部分滝壺が、侵食により副滝が後退していく際に作られる地形なことが分ります。その他、ポットホール(歐穴)が4箇所で見られるのですが、地形の規模が小さくて、滝の後退に何の寄与もしていないこともわかります。・・・歐穴は岩盤平滑河床においてその存在区間が存在しない区間に比べて侵食力が大きいことを示している微地形ですが、地形の大きさが小さく、遷急点を動かしている地形ではありません。 <滝がどのように後退してきたか> この滝の場合、下滝の造瀑層になっている泥層に遷急点が懸かってから滝が泥層を苦労して削り、後退していった結果が現在の形です。それで、下滝を作っている泥層に最初に当たって滝ができ始めてからあと、滝が分裂し、本滝の泥層で、現在は後退がとまっていると推論できます。一般に、滝は上流に後退すると滝壺の跡以外は何も残さないので、滝の過去の形は分らないわけですが、滝が造瀑層にかかると、一時的に滝の後退を造瀑層が遅くするので、その部分で、滝の過去の形が残ったり、復元できたりします。そこが造瀑層の意義でしょうか。 地質条件が簡単で、滝面の微地形から、滝の後退のメカニズムを観察するのに良い場所です。 ・・・・以上のようなことは、変人のたわごとなので、つまらんことは考えずに、夏になったら、素もぐりのできるお父さんは子供をつれてきて滝壺にもぐりましょう。尊敬されるかも。・・・・以前の河童も陸に上がったままでは、年に勝てず、お父さんが、おぼれちゃうかもしれませんけど。 |
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2002年年賀状 急駟滝 富津市 湊川水系 成因:川廻しの滝 類例のない地形条件のところにできた川廻しの滝。 川廻しによる下流の荒廃は明治の環境破壊の跡としても注目される new 090413 |
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謹賀新年 2002年 元旦 本年もよろしくお願いいたします 富津市 急駟滝(きゅうしたき) 名称:菱田忠義先生による。ちょっと不安。 所在:富津市高溝、湊川水系支流 高宕川 位置:北緯35゜12′03″ 東経139゜58′33″〔日本座標〕 2.5万地形図:鬼泪山。 大体の位置はここ。 概略図 高宕川には3つの川廻し地形があり、その3つ目の川廻しの滝。高宕川本流をトンネルで支流に落とし、落とした滝が急駟滝。 川廻し以前は、本流の水が宮内滝に流れていたが、川廻し後は、急駟滝で支流に流れてしまうので、流れなくなって宮内滝は北の支流の水のみになっている。 流域面積:1.73ku 景観:落差27m 急傾斜階瀑の人工瀑(R型川廻し滝) 岩質:上総層群十宮層・竹岡層(凝灰質細礫岩・砂岩) 凝灰岩はさみ 記録:今までなし。この滝おやじのHPが最初。 成因:人工の滝(川廻しの滝 (R型) :本流から支流に落とすという、房総でも類例のない形態である) 時期:明治20年代。 変遷:人工なので省略 変化:見どころ参照 人とのかかわり:川廻しされた場所は、小字「牧舎」という所で、現在では、えらい山奥で、完全放置された林地と化しているが、牧場として開発されたものである。 この牧場は、明治時代に開発され、「高宕山牧社」といったとのこと。 『株式会社、高宕山牧社、営業所を宇藤原におき、明治21年3月環村高溝の吉田栄蔵他が設立。明治33年株式会社組織となり、社長吉田米蔵。収支つぐなわず廃業。いつ止めたのかは不明である』(富津市史編さん委員小沢先生より聞き取り) この牧場については、もっと調べないとわからないことが多いのだが、川廻しは、牧場造成のために行なわれたと思われる。川廻しの目的が牧場造成のためであった例は、房総ではこの例だけである。 なお、この牧場は造成後、下流に荒廃をもたらしたようで、現在宮内滝から黒滝にかけての旧本流の河床には、細粒の赤い土でできた、比高2m以上の段丘化した地形がある。 これは、造成後(あるいは牧場放置後)に下流に流失した牧場の造成土の堆積跡と思われる。 この地形のため、本来の本流の谷が、支流の谷より狭くなっていて一見本流に見えないという変わった景観を示している。
滝の初出:宮内滝は江戸時代、明治時代から名所として、記録があるが、急駟滝は、明治時代の人工滝で記録等はない。 1955年にこの地域で、千葉県教育委員会発行の「高宕山ニホンザル綜合調査」報告書が刊行されているが、滝の記載はなく、川廻しとも認識していなかったようで、急駟滝下流の支流流路を高宕川の本流とする図となっている。 滝として最初の発見者は、君島安正氏と思われ、1980年ごろから氏によって所在が知られるようになった。 名称も当然記録がなく、地元の郷土史家、故菱田忠義先生の教示による。 人工の滝であるので、本来名称がなかったと思われ、いわれなどは明らかでない。漢学の素養がないととてもつけられない名前で、菱田先生が故あって命名されたのではないかと想像しているが、確かめようもない。 なお、1993年刊行の、「続・千葉県地学のガイド」のp119-124、14.高宕川の上流 にこの滝の地質が紹介されているのが、最初の文章記録である。ただ、この紹介では滝を自然の滝と誤認した文章となっている。 見どころ: 未調査で、わからないことが多い。 1.本支流の河床高度の違い 下からみると、上がトンネルになっていることがわかり、人工の滝である。 宮内滝の本流の水を取ってしまっているわけ。上で述べたように、類例のない変な川廻し滝である。本流のほうが30m近くも支流より河床が高いということで、普通そんなことは起こらないものだが、地質図を続図してみると、竹岡層・十宮層が硬い造瀑層として河床をいびつにしていると思われる。だが、黒滝から急駟滝までも同じ竹岡層なんで、それだけでは説明が付かない。今後、両方の沢の河床の地質を、その目で見直さないと納得ゆく説明は得られないと思う。 2.滝の変化 作られてから100年位たっている滝で,滝のできる前の地形は、曲流攻撃斜面にあたる崖であったとおもわれる。 現場でみると、以前の斜面と滝面との差が侵食量にあたり、かなり莫大。上の画像で見ても、6-7mは掘っている。 滝に取り付けないので、この侵食の様子など、わかっていない。 |
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2001年年賀状 開墾場の滝 君津市小糸川 成因:川廻しの滝 滝面:滝面未侵食、全面滝壺形成 | |||||||||||
謹賀新年 2004年正月 本年もよろしくお願い申し上げます。 開墾場の滝 :林業型川廻しの滝 名称:本来滝の名前などなかったのですが、立派な滝なので現在は、所在小字の名前をつけて呼ばれている。2.5万地形図にも出ています。 ただし、位置が全然違っているのでご注意願います。 どう違うか、位置図はこちらを参照。 詳しくは、滝情報カード(開墾場滝)を参照してください。 所在:君津市奥米 小糸川水系 支流三間川 位置: 緯度経度、N35度11分29秒 E140度02分18秒ぐらい(世界座標)。 流域面積:3.20ku 景観:落差8m・幟瀑、 壁状人工瀑。 川廻し滝としては、高さも水量もあり、房総随一の滝といえるでしょう。 岩質:三浦層群安野層 泥がち砂泥互層 緩い逆層。 記録:このHPかな。 成因:林業型川廻しによる人工滝 時期:作られたのは、明治以降と思われる。 変遷: 滝面の後退はまだほとんどありません。滝上のトンネルの底面が、一部下刻されているぐらいです。 ただし、滝つぼは、深くて、3m以上はあり、定石どおりにできているといえます。 変化: 滝面:一部侵食 滝面を原型と平行に侵食し、深い全面滝壺を作る。滝頂上部は下刻溝形成。 行き道:滝の下流、滝の上流、いずれにも、踏み跡があり行けます。滝の左岸岸壁に仕事道のステップが切ってあるが、だいぶ痛んでいて、落ちると命が無い。まあ、自業自得ということで・・・。 滝の初出:木更津市在住の安田淳一氏が毎日新聞に紹介されたのが最初と思います。 その時、滝名は、「奥米の滝」で、これは現地の名称でなく、その後、房総の滝調査の草分け、君島安正先生が現地で聞き取りして確定。 見どころ:成因が、林業型の川廻しであること。 変化変遷として、滝面がほとんど動いていないのに、全面滝壺が形成されていることが、最大の見所。 画像は、2001年撮影 |
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2000年年賀状 無名の滝 君津市 小糸川水系 成因:支流型の滝 滝面:面滝円弧状 岩質:砂泥互層逆層 | |||||||||||
謹賀新年 2000年 正月 本年もよろしくお願い申し上げます 無名の滝 所在:君津市奥米、旧川(ふるかわ)、小糸川水系支流 三間川の支流(沢の名前がわからない) 位置:北緯35゜11′28.″ 東経140゜02′49″〔日本座標〕 2.5万地形図:坂畑。 大体の位置はここ。 流域面積:0.74ku 景観: 8m・簾瀑 円弧状急斜瀑 成因:支流型の滝 滝面:面滝円弧状型の滝面 君津市奥米、旧太郎東方の支流懸谷の遷急点の本滝(8m)。 滝の名称は不詳。三浦層群安野層凝灰質砂泥互層。 面滝円弧状型/逆層砂泥互層タイプと呼ぶことにします。 緩く逆傾斜した薄い砂岩層と泥岩層の互層に懸った滝。泥層ごとに細かな段になる円弧状の滝面を作っている。美しくはないが個性的な滝面です。 この滝は瀑布帯の本滝で、滝に行くには手前の3mの下滝を登らなければならないが、これが、ステップはあるけど、厳しいです。下るときはザイル使った方がいいでしょう。落ちても自業自得ということで・・・。 滝の初出:房総の滝調査の草分け、君島安正先生が瀑布帯を遡行。所在を教えてくださいました。 写真提供 君島安正氏 撮影 1981年4月 |
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1999年年賀状 山口の滝 鴨川市 洲貝川水系 成因:本流型の滝 滝面:線滝 壁状直下型 | |||||||||||
謹賀新年 1999年元旦 山口の滝(金杖(かねづえ)の滝) 滝の名称:最近、地元で立てた案内看板などには、金杖(かねづえ)の滝とあります。 『稿本千葉県誌』には、「山口瀧 曽呂村大字西野尻の東南隅にあり。高さ五丈八尺、濶さ一丈四尺あり。」とある。 『安房郡誌』にも同内容のことが書かれています。なお、滝付近の小字を山口という。 滝上に、明治18年建立の不動明王石像あり。明治十八年 本願人 字奥畑 鈴木太郎右エ門 字山口 大久保 紋エ門 とある。 県誌のこの記述は、明治初期に県より村役場に書き上げさせた滝の記録(当時は滝は水車の利用適地として、産業上重要だったので)によるもので、その際、小字の名を取って、山口の滝と報告したのでしょう。 同時に、地元では、金杖(かねづえ)の滝とも言われていたようで、このように滝に複数の呼び方があることは、普通のことです。 私は、なるべく公式の書類に出た名称を使い、なければ、地元での多数決で決めるという方針ですので、山口の滝ということにしておきます 所在:鴨川市西 所在。 洲貝川水系。 位置:北緯35゜05′23.″ 東経140゜01′46″〔日本座標〕 2.5万地形図:鴨川。 大体の位置はここ 流域面積: 0.51ku 滝の上流に農業用の堰ができ、放流しないので、雨の後でないと、水量に乏しい。 景観:18m ・帯瀑。 壁状直下瀑 岩質:保田層群青木山層 砂質泥岩 逆層? 成因:本流型の滝 滝の立地は、滝の上流下流ともに同じ地層なのですが、滝より上流部分では鴨川地溝帯内の構造運動を受けた際の、大きな岩塊ブロックとして動き、岩石が未破砕の部分、下流部分は細かく岩石が破砕された部分にあたり、破砕の有無で、侵食に対する抵抗性が大きく異なることによる遷急点の停止による滝と思われる。 瀑布帯:単一滝 滝面:線滝 壁状直下型。滝下広場は、円形でかなり広いが、滝崖の崩落礫で埋没していて、滝壺の有無は不明。 景観:急斜条瀑 行き道:最近は、「金杖の滝」の案内看板が途中の交差点に立っている。滝の右岸の谷斜面の道路から、斜面の畑に降り、滝の右岸岸壁沿いに竹林の中を下れば滝下に出られる。踏み跡は、有るような、無いような・・・。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『安房郡誌』 |
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1998年年賀状 上白狐の滝 白狐川水系 成因:川廻しによる滝 現状:破壊され消滅 ・・・1998年は、文面と画像は作成途中のがあったので、推測して作成しました。 |
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あけましておめでとうございます。 1998年元旦 消滅した滝 富津市上白狐の滝 トンネルから出てくる川廻しの滝でした。近年工事で消滅とのことです。 場所は、富津市上白狐 集落の南、本流の川廻し出口です。 この下流に、もう一つの廻ししの幅の狭いトンネルの滝があったと思う。 水系は、白狐川。 位置:北緯35゜10′05.″ 東経139゜52′10″〔日本座標〕 2.5万地形図:上総湊。 大体の位置はここ 流域面積: 2.02ku 地質は、三浦層群天津層の泥岩 滝面の崖に出ている黒い地層は、黒いスコリア凝灰岩層。それでみると、地層の向きは順層ですね。 滝面の岩の表面の形は、泥岩通例の急な、割れ口の多い岩肌です。 人工の川廻しの滝ですので、トンネルから流れ出ています。高さや幅の値には、自然の滝としての意味はないので省略。滝のできた川廻しの年代も不明。 滝の形成後の、地形変化を見ると、滝面の後退、滝の頂部の低下が全然なく、滝面が侵食されていないのに対し、滝下の滝壺は、深そうなのが滝面の下全面にわたってできています。滝壺は垂直な落水があるとすぐ出来てしまうということの事例です。 川廻しの滝として、小規模ですが、水量もあり、滝まわりの風致もよく、いい滝だったですけどね。 滝の初出:木更津市在住の伊藤聖一氏が所在を教えてくださいました。 その後、行ってみましたところ、川廻しトンネル自体が河川工事で切通しになり、滝は堰堤と化して、完全に消滅していました。河川工事の原因となったらしい、ゴルフ場開発は、挫折したらしく、中絶していて、山河を破壊しただけの結果に終わっていました。 |
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1997年年賀状 滝ノ沢の滝 大多喜町 養老川水系 成因:懸谷型の滝 滝面:複合型滝面 歐穴型副滝。 | |||||||||||
滝ノ沢の滝 滝の名称:ちょっと信じがたいのですが、地元の古老によると、本来、無名の滝で、滝沢という支流の名前はあったが、滝の名前はなく、無名であった。無名だが、沢の名前でわかるので、滝ノ沢の滝と言っていたそうです。 観光名では万代の滝となっている。 所在:大多喜町粟又。養老川水系。 粟又滝より下流で合流する支流滝沢の滝 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜13′06.″ 東経140゜10′56″〔日本座標〕 2.5万地形図:上総中野。 地図の位置は⇒ここ 流域面積: 0.60ku 高さ:高さ12m 幟瀑 滝の成因:懸谷型の滝。 滝の時代: 粟又滝と同期の滝で、久留里X面〜現河床への下刻により形成開始。 変遷:この滝上に行ってないので、うえがどんな瀑布帯になっているのか確認してません。実は、上流は川廻しで、大改造されているらしい。 現在の変化: 複合滝面で、歐穴型の副滝。変化の復元は興味深いものがある。下の見所の文章を参照。 行き道:以前は本流河床を歩いていかないといけなかったが、現在は遊歩道ができているので、粟又滝から少し歩けば滝下にいける。 滝の初出:記録がない滝で、遊歩道ができて一般に知られるようになった。滝の観光名は、遊歩道ができた時に付けたようですね。 見所: <懸谷の滝で、後退量がわかる> 滝沢の滝では、本流から滝沢の滝が後退していったと考えると、何mぐらいさがったか見えますのでみてください。 <歐穴型の副滝を持つ複合滝面> また、副滝の滝面は以前の滝壷のまるい跡が残っています。深さを測ると滝壺の底は、滝の下流の岩盤より深いことがわかります。 ということから、以前は滝の頂上に、歐穴型の平面円形で深い部分滝壺があり、その滝角下流側の壁が壊れて、副滝が形成されたことがわかります。 このような、滝面の途中に滝壺が作られ、その前面あるいは底が壊れて、滝面が後退する(この滝の場合は副滝が形成された)形で滝面の後退が進む、後退様式はしばしば見られます。 93年の白糸滝や、84年の沢山不動滝なんかもその例です。 なお、冬以外は、脇の林に入ると、山ヒルに食われるので注意。梅雨時は木の上からも落ちてきます。 |
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1996年年賀状 徳氏不動滝 養老川水系 成因:ありふれた懸谷の滝 滝面:面滝壁状直下型。全面滝壺 | |||||||||||
謹賀新年 平成8年 元旦 本年もよろしくお願いいたします 徳氏不動滝 名称:不動滝。大字名をつけて、徳氏不動滝ということにします。 所在地:市原市徳氏 →徳氏ってどこだ?地図 国土地理院2.5万地形図大多喜より作図 緯度経度(日本座標) 北緯35°18′48″ 東経140°09′03″ 水系:養老川の支流にかかる滝 落差:5m(目測) 流域面積: 0.45ku 景観:写真うつりはいいですね。左手から落ちているのは、滝上で分水された今は使われていない用水路の水。水質はあんまりよくなかったなあ。水量はかなり豊富です。 本流沿いの懸谷の滝はたくさんあるんですが、大抵はもともと水量が少なかったり、上流で改変されていて水が枯れていたりして、滝としてあげていいのが少ないんですが、この滝は立派です。 流域面積が、0.45kuと小さい割に水量があります。理由としては、滝の上流は段丘上の水田ですので、流域内の水だけでなく、水田灌漑用の用水の水も入っているため、水量が多くなっているのだろうと 思います。 岩質:養老川流域で、滝になっている最北の場所かもしれません。養老川流域というか上総地方では、南から北に行くにつれて、だんだん地層が新しく、未固結・軟らかくなっていくので、滝ができなくなります。 一番、北にある自然の滝かも。地層は、上総層群柿ノ木台層。それより新しい地層には、長南層、笠森層というのがあるが、それらの地層には、普通の成因の滝は無く、笠森層の一部のやや硬い砂泥互層に、成因の特殊な河川争奪の滝があるだけです。 岩質は傾斜2度ぐらいの緩い逆層の泥質シルト層。滝面形が急で丸みを帯びた形になりやすい岩質。 記録:今までなし。 成因:懸谷の滝 時期:久留里X面相当だと思います。 変遷:徳氏地区の養老川沿いの段丘を侵食する2m幅の支流が懸谷になって、5mほどの滝をかけ、本流との合流点から15mほど滝が後退して、長径4mぐらいの楕円形の全面滝壷を作っている。滝壷から本流までは平坦な岩床。 このことは、岩床部分を滝が移動していた時には、現在のような直下型で滝壷を作るような形でなく移動してきたことを示しています。 変化:滝面は面滝壁状直下型。 人とのかかわり:滝上に、不動堂がありますが、滝には信仰行事は無いようです。 行き道: 教えてくれた道は、なくなっていて養老川本流を腰まで浸かってへずって辿り着いたが、滝上の不動堂の下の道を滝わきまで行って、小崖を降りれば容易でした。ロープあるといいけど。 滝の初出:滝之丞氏と滝の写真を撮りに行ったついでに、徳氏地区で、以前、木平さんが滝があるよ(地図の1の滝:人工の滝です)と教えてくれたのを探していたら、地元の方に「別に、不動滝というのがある」と教えて頂きました。それで、このHPで新情報として紹介したのが初めてだと思います。 |
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1995年・2012年 年賀状 粟又の滝 (高滝) 成因 本流型の滝 : 滝面 面滝壁状緩傾斜 全面滝壺 滝下広場の地形から、滝の発生と滝面の移動を跡づけられる貴重な滝 |
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<1995年 年賀状> | |||||||||||
謹賀新年 1995年元旦 本年もよろしく 高滝(粟又の滝) 滝の名称:高滝が本来の名前。粟又の滝は、地名を取って名づけたもの。 行き方:有名な観光地ですから省略。粟又滝の下流から、かっか滝まで川沿いに遊歩道がありま す。千葉県では数少ない観光化された滝なので、いいかげんな足ごしらえでも歩けます。ただ、雨の降った翌日行かないと水量がものたりない。 滝を観る <2005年 中央博友の会ニュース54号> 粟又の滝の形成とその後の変化を紹介した文章を書きましたので、ここに載せます。 粟又の滝 古地形の復元 大多喜町粟又の粟又の滝(本来の名前は高滝)は、奥養老渓谷の要として、千葉県の方は一度は行かれたことがあるでしょう。 高さ30m、黄和田層の泥岩にかかる緩傾斜の滝です。 この滝の下は広い平らな岩床の広場で、図のように、3個の新旧の滝壷と、広場の下流端に、Kd18という軽石層があり、粟又の滝の発生と現在までの変化を、跡づけることができます。 図の0の、Kd18の軽石層が末団結で、その層面に沿って上が割れて流され、Kd18の層面が滝面になる粟又の滝が発生しました。 その後、滝面の泥岩層を削り、滝面が上流に動いていきました。その跡が、滝壷1、2、3で、現在3を広げている最中です。 最初の形が地層面と同じで、滝としては、お仕着せの形であったので、その後、緩傾斜の滝が一般的になろうとする形=上部が長く緩く・最下部が垂直に近い小さな段を作るという形、へと変貌しつつあると思われます。 滝下は、長靴で入っていけますので、今度行かれたときには、探検してみてください。・・・滝壷に落ちると深さ2mくらいありますが。 <2012年 年賀状 「粟又滝の滝壺」> 謹賀新年 2012年元旦 本年もよろしくお願いいたします 高滝(粟又の滝) 大多喜町粟又の粟又の滝(本来の名前は高滝)は、奥養老渓谷の要として、千葉県の方は一度は行かれたことがあるでしょう。 高さ30m、黄和田層の泥岩にかかる緩傾斜の滝です。 この滝の下は広い平らな岩床の広場で、注記のように3個の新旧の滝壷があります。 この地形は、滝が動いて滝壷が3つできていった跡で、粟又の滝の発生と現在までの変化を、跡づけることができます。 |
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1994年年賀状 小沢又の滝(かっか滝) 大多喜町 養老川水系 成因:支流型の滝 滝面:面滝壁状直下型 全面滝壺 粟又滝の同期の滝。 滝の上下流の河床も散策可能で、遷急区間の地形を観察できる。 近くにある他の滝は、すべて人工の用水路末端の落水による滝モドキで、滝の形から、モドキを見分ける眼力テストによい。 あと、上流のΩ型川廻し地形は、地形保存がよく、フルカワ断面を観察できるすぐれもの。 new 090422 |
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謹賀新年 1994年正月 小沢又の滝(かっか滝) 滝の名称:かっか滝は、近年、「命の滝」という観光名がついているが、地元の呼び名では「かっか滝」。所在大字名をとって「小沢又の滝」ともいう。 所在:大多喜町小沢又 水系:養老川支流 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜13′28.″ 東経140゜10′41″〔日本座標〕 2.5万地形図:上総中野。 地図の位置は⇒ここ 流域面積: 0.69ku 高さ: 7m 幟瀑 滝の成因:支流型の滝。 岩質: 上総層群黄和田層 滝の時代:奥養老渓谷の粟又滝と同期の滝で、滝沢の滝(1997年年賀参照)と同時期で、久留里X面〜現河床への下刻により形成開始。 変遷: 本流合流点から約200m移動している。途中に化石滝壺がなく、この地点までは直線の河道を小滝群で移動してきて、現在地点で河道が直角に曲がるために遷急点移動が一時停止し、小滝が集合して、単一の滝となっている・・・と解釈される。 現在の変化:河道屈曲部分地点にあり、面滝直下型で全面滝壺がある。上滝もなく、いかにも後退が止まっている滝の形である。 また、岩質は、泥岩逆層で、壁状の直下型滝面を作りやすい形である。 行き道:イワツツジで有名な、小沢又地区の水月寺の近くにある。車は、国道沿いと滝上の茶店近くに有料駐車場がある。そこから、簡単に行けるが、滝上の茶店に入るのに金がかかる。滝上の観瀑台から遊歩道がある。 滝の上流には、滝上から川床を歩く。滝の下流には、養老川本流まで踏み跡と川床を歩けば行ける。 滝の初出:郡誌などの記録がない滝で、個人による観光開発で、知られるようになった。 小林さんという方が、たまたま滝を見て感動、1990年ごろに観光開発をして、遊歩道ができ、「生命の滝」という観光名の看板も国道に立ち、一般に知られるようになった。 その頃の新聞記事の一例です。 -----1990.5.8 千葉日報の記事より------- <都内の小林さん 自然にひかれ住みつく 養老地区 自ら滝への道を整備> 渓谷美を誇る養老渓谷の弘文洞が崩壊して六、七年になりますが、弘文洞のあった所から粟又の滝の途中に小沢又という三つの滝があります=写薫。 大きい方の滝は高さ三十b 幅三bで水量も多くその後ろと横にある二つの滝は、高さは同じく三十bくらい、幅は若干狭い程度です。 まぶしいほどの新緑に水しぶきが跳ね、きらきら輝く光景は 自然の織りなす造形美てす。 三年半前、東京の小林さち子さん{八八)と息子の進さん(四七)が地元の人の話と水音を頼りに、森の中に隠れていたこの滝を見付け、それぞれの表情を持つこの滝にほれ込んで、ついに養老地区に住み付き、滝つぼまでの手すりや階段のほか、たいへん苦労して道を整備しました。 「滝を含めてこの素晴らしい自然を、ぜひ大勢の人に見ていただきたい」と小林さんは話しています。 (四街道市 関内直枝) ------------------------------------------ 「かっか滝」の名称は、雑誌、ニューライフ千葉325号(1990)の、表紙写真の解説文に、「地元ではかっか滝と呼んでいます」と紹介されたのが最初のようですね。 なお、滝の高さが、30mとなっていますが、7mです。 滝を観る: 上述のように、観光開発されている。観光名 「生命の滝」だが、大字地名を取って 「小沢又の滝」のほうが通りがよい。 滝の周りに、他に3つ人工の滝(用水路の余水吐)があります。「幻の滝」という観光名がついている。 滝面の形は逆層の泥岩の滝によくある、面滝壁状直下型のありふれた形です。 この滝は、滝の上流下流を歩くと、滝のある川の変化を、心の目で見ると、体感できる点が、見どころと言えましょう。
この支流は、国道より上流は、平坦な谷底平野になっていますが、国道の橋付近から、養老川本流への合流点までの下流部分が峡谷をなしていて、峡谷部分の中ほどにかっか滝もあります。 峡谷の上半部、滝の上流部分は、人工改変されていて、堰と連続型の川廻しになっています。 川廻し部分は、フルカワの部分を、図で黄色で表現しました。 地図には表現されていない川廻しのトンネルもあります。 また、堰の適地は岩盤の露出ですので、堰と滝とは一致することが多いので、今の堰堤のところには、もう一つ滝があったのではと思われます。
縦断面で見ると、国道より下流の峡谷部分が、国道より上流の平坦な谷底平野に対して、遷急区間になっています。 この遷急区間は、かっか滝と堰の滝の2つの瀑布帯に別れています。そして、本流の久留里X面とかっか滝とが対応、久留里W面と平坦谷底平野が対応しています。 このことから、久留里X面の年代・2000-3000年前から、本流の下刻が始まり、その下刻に対応して支流の侵食が起こり、侵食の先端が本流から200m移動して結果がかっか滝ということになります。 本流からかっかッ滝まで、200-3000年の間に、滝が動いた跡だと思って歩いてみてください。滝って結構動くもんだというのが実感できると思います。 あと、上流の川廻し地形は、小規模ながらよくまとまっていて、川廻しってこんなものという例によいです。 |
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1993年年賀状 白糸滝 富津市 湊川水系 成因:支流型の滝 滝面:線滝直下型 全面滝壺 白糸滝瀑布帯・・・比高13m。下滝(2段5m)本滝(7m)上滝(1m)よりなるの本滝。 直線型瀑布帯の例 |
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新年おめでとうございます。 1993年元旦 白糸滝 (画像は、君島安正氏提供) 滝の初出:稿本千葉県史、君津郡誌など。 君津郡誌(大正年間発行)の記載 「白糸瀧 君津郡駒山村大字志駒の東方深山の中に在り、地藏川の渓水此處に來りて懸崖より飛下す、高さ二丈四尺、濶さ三丈、恰も白糸を懸けたがるが如し、故に此の名あり、瀧甚だ高からずと雖も風景頗る奇勝なり。」 滝の名称: 上の郡誌の記載にもあるように、「白糸滝」といわれていたが、地元では、「地蔵堂の滝」とも呼んでいた様で、近年、地元で立てた看板には地蔵堂の滝とある。 所在:富津市志駒 水系:湊川支流志駒川の支流地蔵川 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜10′07.″ 東経139゜55′40″〔日本座標〕 2.5万地形図:鬼泪山。 地図の位置は⇒ここ 流域面積: 1.36ku 高さ: 7m 幟瀑 滝面:線滝 直線溝型 2段直下型 滝壷あり 滝の成因:支流型の滝。 岩質:三浦層群天津層 泥がち砂泥互層 逆層 行き道:県道の橋上から覗ける。下滝の下に降りる踏み跡あり。本滝下まで河床沿いに登ればいける。下滝はナメ滝だが、一応滝なので注意してください。 白糸滝の瀑布帯は、比高13m。区間長約50mの瀑布帯です。下滝(2段5m)と、本滝(7m)上滝(1m)よりなり、直線型瀑布帯をなしています。 下の段丘面分布図と縦断図に示すように、県道沿いの公会堂(旧地蔵堂)のある段丘面が、富津U面で、瀑布帯の上滝の上流の河床が、その下位の段丘面の富津V面に対応します。瀑布帯は、本流が、富津V面当時の曲流した河道から、曲流短絡しながら下刻していったためにできた、本流の河床低下による、支流の瀑布帯です。ゆえに、滝の形成はじめの年代は、富津V面が下刻され始めた時代に当たります。 富津V面の年代は、未確定ですが、小櫃川・養老川の久留里W面に相当すると思われるので、約4000年前ぐらいになるのではと思われます。 はじめの滝は、現在の下滝の位置にありました。その後の変化は、下の白糸滝の縦断面および平面図の示すように、最初の滝が2つに分裂し、上半部分の滝が、直線河道で後退した後、滝壺型滝面3つよりなる直線瀑布帯を作り、現在の本滝(白糸滝)になっています。上滝が分裂して、頂上滝壺を作っているので、現在も同じような動きで変化しつつあるものと考えられます。 当初の滝の下半部は、ほとんど移動せず現在の下滝になっていますが、この滝は、本流のD面当時には存在せず、D面の下刻に対応して、再度掘り込まれ、高くなった滝とも考えられます。
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1992年年賀状 外野、女滝 富山町 平久里川水系 成因:本流型の滝 滝面:線滝 壁状急傾斜 房総の代表的瀑布帯、外野の瀑布帯の本滝 |
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謹賀新年 昭和年1月1日 外野女滝 所在地:富山町外野 水系:平久里川水系 支流 外野川 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜07′01″東経139゜55′59″〔日本座標〕 2.5万地形図:金束。 地図の位置は⇒ここ 流域面積: 0.45ku 落差:8m 面滝 帯瀑 壁状 2段急斜型 岩質:砂質泥岩層 無層理(地質図では逆層) 佐久間層群中尾原層 成因:本流型の滝 時期:おそらく沼V面 変遷:外野瀑布帯の本滝 滝の初出:房総の滝調査の草分け、君島安正氏が瀑布帯を遡行。所在を教えてくださいました。房総の滝調査の草分け、君島安正氏が1980年代に瀑布帯を遡行。所在と名称を教えてくださいました。 その後、房日新聞 昭和54年3月25日号「南房総の伝説と名所旧跡を訪ねて」に紹介されました。 |
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外野の瀑布帯 比高30m。 平久里川支流外野川の遷急点。 下滝1.2(1.5m、1.8m壇瀑)、本滝(女滝 8m)、上滝1.2(7.2m線滝、3.6m壇瀑)の5段の滝よりなる。 女滝のすぐ下流で、支流が合流し、外野不動滝(堂の滝ともいう)23mが合流。 縦断図は、外野川の平久里川合流点から水源までの縦断図です。長さ130mほどの遷急区間に、5つの滝があり、外野の瀑布帯となっています。 瀑布帯は、房総における代表的な曲流瀑布帯(河道の屈曲点に滝が立地する)です。 |
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1991年年賀状 外野不動滝 富山町 平久里川水系 成因:もろに懸谷の滝 滝面:直下型階瀑 懸谷の滝としては、かなり立派。 |
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謹賀新年 昭和年1月1日 外野不動滝 所在地:富山町外野 水系:平久里川水系 支流 外野川の支流 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜07′01.″ 東経139゜55′58″〔日本座標〕 2.5万地形図:金束。 地図の位置は⇒ここ 地形図は、1992年女滝の図参照 流域面積: 0.25ku 落差:23m 景観: 面滝 条瀑 壁状 3段直下型 岩質:砂質泥岩層 逆層 佐久間層群中尾原層 成因:懸谷型の滝 時期・変遷:形成後、まだほとんど動いていない。 滝の初出:房総の滝調査の草分け、君島安正氏が1980年代に瀑布帯を遡行。所在と名称を教えてくださいました。 その後、房日新聞 昭和54年3月25日号「南房総の伝説と名所旧跡を訪ねて」に紹介された。 |
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1990年年賀状 白絹滝 鴨川市 加茂川水系 成因:源流型の滝+硬岩型の滝 滝面:線滝、円弧状急傾斜 岩質:珪質泥岩・逆層 | |||||||||||
謹賀新年 1990年元旦 鴨川市 白絹滝 所在地:鴨川市上小原 加茂川水系。支流。 位置:緯度経度(日本座標) 北緯35°06′23″ 東経140°01′56″ 場所は大体このへん。⇒ここ 記録:安房郡誌『白絹滝 主基村大字上小原の西南隅字瀧にあり、鞍骨高倉二山の間に懸る、高さ二十三丈九尺・濶さ一丈二尺にして、其の源は嶺岡山脈の淺間山麓に發し、此處に至りて絶壁より直下し、白龍の天より降るが如し、本州瀑布中第一の壮觀たり、下流は長幾(オサキ)川となりて加茂川に入る。』 二十三丈九尺は、72m。濶さ(広さ・幅)一丈二尺は、3.6m。 景観:約30m ・条瀑。 円弧状急斜階瀑。 滝の上流に採石場があり水量が減少している。画像は降雨後の姿。 「本州瀑布中第一の壮觀たり」と書かれているが、現在それに同意する人はいないと思う。どうも、明治大正期には、瀧の白糸という言葉のような、細く白い高い滝が、良い滝という美意識があったようで、白糸の滝という滝の命名がこの時期に多いように思います。 現在は、やっぱり、規模(高さ×幅)と水量が立派なら立派ということですかね。 その意味で、この滝は、水量不足ですね。 なお、地形図から見て、高さも約30mという所だと思います・・・未確認ですけど。 流域面積:0.14ku(近年、上の採石場の拡大のため流域面積が変化しているようです、この面積より実質減っているかしれません) 岩質:嶺岡層群白滝層 チャート質泥岩 逆層。河床断面図参照。滝の位置は緑色凝灰岩のところに懸かっています。 成因:源流型の滝。 補足。源流型の滝というのは本来、谷が侵食によって掘り出され、上流ほど急になっていく河床で、岩石が新鮮で硬い部分が段になっている滝ですが、この滝の場合、上流部に硬岩の区間があり、岩が硬くて侵食できなかったことによる長い段で、硬岩型の滝の性格もあります。 源流型+硬岩型の滝といえる。 時期:わからない。 変遷:地形図からみると、谷そのものの侵食が進んでいなくて、谷の最上流は緩く、その下流の緑色凝灰岩層の部分が急勾配の遷急区間になり、その遷急区間が白絹滝そのものになっています。下の断面図参照。 このように、谷の上流の河床が急勾配になる部分が、水量が少なくて侵食力が無く、岩質の硬さに負けて、地形的な源流部分でなくその下流の区間になることがよくあります。当然、源流に近いので、水量に乏しい滝や滝タラズ、枯れ滝になります。 つまり、水量が少ない(源流に近い)ことと、河床区間が硬岩なことの2つがあいまって、河床が急勾配になるわけです。 滝の成因分類で言うと、硬岩型の滝ともいえますが、源流型の滝だって多くはその部分の岩が硬いから滝になっているわけですので、区別が難しく、その滝が、源流に近ければ、地形的に厳密に源流でなくても、分類としては、源流型の滝に含めることにしています。 この滝は、細かく見ても、瀑布帯の侵食(分裂や後退)は、進んでいないようで、滝の位置も造瀑層の緑色凝灰岩の境から、20mぐらいしか後退していません。また、画像のように、滝の見える部分は、高さにして20mから上は連瀑帯になっているので、瀑布帯の後退分裂は少しはあるけど、掘り込みは浅そうです。 ただ、瀑布帯の上部を最近見て確認した方はいないようです。高さが72mもあるのかも未確認です。危険そうだし、見に行きたくなるほどの姿でない、というのが本音。 変化:線滝 円弧状 見えるところは3段の階瀑。急傾斜 浅い滝壷あり。 行き道:白滝不動のの境内にあり。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『安房郡誌』 |
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見どころ 滝面のところに、硬岩層に当たる、チャート質の緑色凝灰岩逆層がありますので、さわってみてください。 千葉県内で、緑色の岩ってここだけかも。石器材料にもなっている硬い石です。・・・石材になるのは地層の中のさらに硬い一部ですけど。 ところで、嶺岡山地では滝が他にもあるかというと、他の川には報告がありません。水量がなく、谷が浅く、滝にならないのです。 嶺岡山地は、かんらん岩または玄武岩が露出して、高くなっている山ですが、岩そのものは結構固いので出っ張っていはいます。 しかし、本来+形成後の構造運動を受けて割れ目が多く、透水性が大きいので、侵食谷が発達していません。侵食谷が掘れていないので、山地斜面は傾斜がゆるい。水もなく、傾斜もゆるいので、滝タラズの、枯れ滝、濡れ滝はあるけど、水もあり傾斜もある「滝」はないということになります。 それが、白絹滝周辺のみは、チャート質で硬く、割れ目も少ない、緑色凝灰岩が露出していて、山地斜面がその分布部分はより急傾斜になり、かつ、山の幅が広がっています。 それで、そこの谷は、斜面の岩石が硬いことを反映して、山の斜面をなぞるように流れて、河床が急になり、瀑布帯になります。 さらに、山の幅が広がっているので、流域面積が大きくなり、谷にやや水量が多くなります。その結果、滝タラズ(濡れ滝)から、「滝」の仲間の源流型の滝といえるぐらいの水量増加になったということになります。 ・・・・・要するに、迫力のなさが見所という、通好み、前座レスラーのような滝。 |
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1989年年賀状 泉川(ぜんぜん)滝 鴨川市 待崎川水系 成因:平野型の滝 滝面:面滝壁状 全面滝壷 | |||||||||||
謹賀新年 昭和64年 元旦 泉川(ぜんぜん)滝 所在地:鴨川市和泉 水系:待崎川 位置:大体の緯度経度は、北緯35゜08′04.″ 東経140゜06′05″〔日本座標〕 2.5万地形図:鴨川。 地図の位置は⇒ここ 流域面積: 10.90ku 落差:5m ・壇瀑 急斜壇瀑。 岩質:三浦層群天津層 泥岩層 ほぼ水平。泥岩質の滝であるが、上部緩斜面、下部緩斜面が発達し、砂岩層の滝のような形状を呈する。 記録:「東絛村大字和泉字泉川瀧に在り、高さ一丈六尺、濶さ九丈、待崎川此處に來りて復、飛泉を為すものにして、即ち蜘蛛瀧の下流なり、大旱の時里人來りて雨を祈る、瀧の東南丘上に石碑あり、詩及び和歌二首を刻す」 成因:平野型の滝 時期:待崎面相当 変遷:滝の下流の河岸段丘面との対比から、待崎面(2000―3000年前か)を下刻した新河道の遷急点である。成因的には、平野地下の基盤岩を下刻した河道が掘り出すために未固結沖積層と固結した基盤岩との岩質差により滝が発生する、平野型の滝である。 この滝の場合、滝の下流の河床が平滑岩盤が続き、かなり頑張って滝を後退させてきたことが分かる。精査してないけど、岩盤の侵食後退量は、そんなに大きくなく、約100mぐらいだったと思います。また、現在の滝の下には、雨乞いの舞台になる全面滝壷が形成されているが、下流の岩盤上には滝壷の跡が見られないのも注目される。さらに、現在の滝の後退停止位置が、河道屈曲点の中間の直線河道の部分であるのに、岩質上、滝の下流部分と差異がなさそうなのも注目点である。・・・もう少し調べなければ、と思いつつ、まだ精査してない、心残りの滝の一つです。 変化:面滝壁状 幕瀑 全面滝壷。滝面は円弧状副滝を形成しはじめている。 行き道:2.5万地形図鴨川に滝記号あり。両岸に道路があるが、近年、鹿よけのフェンスで川が囲まれてしまっているので、左岸側より行き難くなった。川の右岸側の道より、不動尊の宮にいける。そこより滝に降りられる。 人との関係:滝上に、和泉用水の取水堰がある。また、滝の右岸に、不動尊がはいった水神の宮があり、滝壺は雨乞いの場所として知られる。 雨乞いや民話については、鴨川図書館編『鴨川風土記 創刊号』など参照。石碑の銘文なども採録されている。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『安房郡誌』 |
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1988年年賀状 黒滝 和田町 長者川水系 成因:よくある懸谷型の滝 滝面:線滝、円弧状直下型 ・・・・年賀状にはモノクロ写真を使った記憶がある。同じ時撮ったカラー写真に変えました |
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謹賀新年 昭和63年正月 本年もよろしくお願いいたします。 黒滝 所在地:安房郡和田町花園 水系:長者川水系 支流 落差:7m ・幟瀑 岩質:三浦層群暗灰〜緑灰色泥岩。逆層。 流域面積: 1.79ku 記録:稿本千葉県誌によれば『黒瀧 和田村大字花園字五山田の山間に在り、花園川は源を花園の大横根嶽より溌し此處に至りて直下す、高さ五丈二尺、濶さ二丈餘、樹木鬱蒼として夏尚寒し。』・・・・記録の高さや幅は過大ですね。 滝の名前は、滝面の色からですが、岩の色ではありません。 黒滝のかたわらに、向西坊入定窟があり、不動明王がまつられている。 「向西坊」とは、赤穂浪士ゆかりの人で、討ち入り後、この地にきたり、「我をまつるものは、五福寿を得ん」言って、入定(五殻を断って、ミイラ(即身仏)になること)したと伝える。和田町指定文化財。 成因:懸谷型の滝時期:未調査 変遷:合流点より50mほど後退した単独の滝。 本流の下刻に対応した懸谷遷急点で、滝下には直径40mほど、崖高25mほどの、円形の井戸底のような滝下広場を堀りだしている。 変化: 滝面:線滝円弧状。埋まった滝壷がある。 行き道:現在は、花嫁街道のウオーキングコースとして整備され、遊歩道・駐車場あり。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『安房郡誌』 |
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1987年年賀状 田代滝 大多喜町 夷隅川水系 成因:曲流短絡(自然の)による滝。 | |||||||||||
謹賀新年 昭和62年元旦 田代滝 所在地:大多喜町田代 水系:夷隅川水系 平沢川 落差:9.5m 幅15m ・簾瀑。 岩質:上総層群黄和田層 砂泥互層 順層 流域面積: 6.27ku 記録:稿本千葉県誌 『田代瀧 同村大字田代字薮に在り、田代及び大字弓木の渓間より溌する水流此處に來りて飛瀑と為る、高さ七丈、濶さ九丈餘にして兩岸の岩石聳峙し頗る壯觀なり、下流は長崎川となりて夷隅川に入る。』 大蛇伝説があり、大蛇の頭と伝えられる頭骨が田代の旧家に伝えられている。大きなサメの頭で、私も見せてもらいましたが、なかなか迫力がありました。 豊水時は豪快で、夷隅川水系のナンバー1の滝でしょう。 |
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成因:曲流短絡(自然の)による滝。人工の曲流短絡滝(川廻し滝)は、たくさんある。また、自然の曲流短絡地形もたくさん残っているが、短絡滝はありそうで、ない。房総半島で、この滝が唯一の例である。 時期:短絡の時期は、わかりません。下流側に、この短絡以前の河床に対応する地形が無いので、段丘面との対比では分らない。旧流路部分をボーリングして、年代測定資料でも取らないと分らないであろう。 変遷:左の図参照。単一瀑で、短絡により滝が形成されてから、73m後退し、屈曲部分の手前で停止。全面滝壺を作成している。 変化:滝面は面滝壁状直下型。全面滝壷。中央部分に円弧状の副滝を作成し始めている。画像のように滝下から見ると、滝面右手からの落ち口があり、一見両溝型に見えるが、滝上の河床を見ると、右の水流は滝上の河床が人工的に導水溝が掘られたために生じた人工的なものと分る。この導水溝は右手の旧流路跡の水田の用水の為に掘られたと思われる 交通:2.5万地形図「上総中野」に滝記号が出ているので行ってみてください。踏み跡あり。下流側の旧水路の水田から川に降りること。 画像:この画像の人物は、房総の滝調査の草分け、君島安正氏。1980年撮影。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『夷隅郡誌』。 |
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1986年年賀状 内梨滝 大多喜町 夷隅川水系 成因:河川争奪の滝。 | |||||||||||
謹賀新年 昭和61年元旦 本年もよろしくお願いいたします。 内梨滝(一ノ滝) 名称: 滝の名前は、沢名による。字は、色々の例がありますが、文書化された滝名の初出の郡誌の字は、超当て字なので、使う人がなく、最近は、内梨滝が多いようです。 所在地:大多喜町平沢 水系:夷隅川支流 内梨沢 位置: 緯度経度や地図は、滝の情報カードを参照。 記録:『夷隅郡誌』の記述:「有池娜思(うちなし)滝 夷隅郡西畑村大字平澤の字有池娜思谷(現、内梨沢)に在り、此の地は幽谷にして左右の斷岩削るが如し。瀑布三あり、一ノ瀧は高さ一丈五尺、二ノ瀧は高さ一丈、三ノ瀧は高さ一丈六尺にして共に濶さ五尺許あり、下流は夷隅川の支流に入る。」 岩質:上総層群黄和田層 泥岩 緩い逆層 流域面積:1.58ku 瀑布帯:3m、3m、2.5m、2mの4連 比高約15mの遷急点。ほぼ同規模の4つの滝よりなる瀑布帯。最上位の滝は並木健祐氏が遡行して発見。 一ノ滝の滝面:壁状 階瀑 緩い逆層で、垂直に節理の入った厚い泥岩層に薄い砂層をはさむ岩相で、砂層部分で節理で分離した泥岩層がブロックになって剥離し、階段状の滝面をなす。泥勝ち砂泥互層滝面の典型的な形である。 景観:急斜壇瀑 行き道:打梨沢沿いの道をつめて、少々沢を遡行。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『夷隅郡誌』。 |
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内梨滝二ノ滝(左)と三ノ滝(右) ともに、厚い泥岩層よりなる。 三ノ滝は、全面滝壺で取り付けなかったので、未調査。 |
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成因:河川争奪の滝。 夷隅川支流同士で、弓木川を内梨沢が争奪し、その結果、争奪地点より上流の遷急区間で狭い急な峡谷を作っています。 争奪地点(最初に遷急点ができた地点)から、700m以上遷急点が後退し、現在700-900m区間が遷急区間となって、4つに分離した滝からなる瀑布帯になっている。 時期:未調査。 詳しくは、新情報、内梨沢の滝群参照。 |
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河川争奪地点上の風隙地形 大多喜町弓木 地形図見れば一目で分る、典型的な河川争奪地形ですが、地形としては、報告されたことが無いみたいですね。 画像の水田部分が、以前、弓木川の上流が流れていた谷の跡。 水田の先が空中になっていますが、争奪前はそこを川が流れている谷があった。現在は争奪されて、下刻され、内梨沢の谷の上空になっている。 |
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1985年年賀状 三滝 勝浦市 夷隅川水系 成因:本流型の滝 滝面:人工改変(ダムに改造) | |||||||||||
新年おめでとうございます。 昭和60年1月1日 三滝(さんたき) 所在地:勝浦市佐野 水系:夷隅川本流 成因:本流型の滝 時期:未調査・・・段丘面との対比ができていない。 岩質:上総層群黄和田層 泥岩 順層 流域面積:68.55ku 瀑布帯:三滝は、夷隅郡第一の滝と言われていた名瀑であったが、現在は、滝の上部が勝浦市の水道ダムに改造され、自然の滝としての景観はなくなっているが、いまだに雄大な景観である。 本来、比高6-7mの遷急点であったと思われる(以前の姿を述べている夷隅郡誌の記述では、2連16mの滝と書いてあるが、明らかにそんなに無く、半分以下である)。現在は、滝の上部は破壊されて堰堤となっている。滝の下部のみ以前の姿を残しているようである。 夷隅郡誌より引用すると、『三滝 夷隅郡總野村大字佐野の西方に在り、夷隅川の流此處に來り二層三絛の瀑布と為る、上層を一瀧と名づけ高さ三丈五尺、濶さ十五丈、下層は二絛と為りて駢下す、右を二ノ瀧と云ひ高さ一丈八尺、濶さ十五丈、左を龜ノ穴瀧と稱し高さ一丈八尺、濶さ十二丈あり、總稱して三瀧と云ふ、頗る壯觀なり。瀑布の下深潭湖の如く、鯉・鮒多く棲息す、材木を運搬する者此處に於て筏を結び之を流下す。水中四岩あり、各高さ一丈五尺、方六尺許、水を出づること數寸にして四目状に並列す、之を四石と名づく。里人云ふ、石上に登れば石の沈むを覺ゆ、河水増減有るも水の上に石の出づること古來一の如しと。』 現在は、上層の一瀧と、下層左の龜ノ穴瀧部分が、ダムに改造され、二瀧部分のみが以前の姿を残すと思われる。落差は以前とほとんど変わらないと思われるので、滝の高さは約6mである。 四石は、現在は見当たらないが、滝壺内の残留している巨礫が水面の高さで、水平にカットされていたものと思われる。撤去されたか、流失したのであろう。養老川の粟又の滝の滝壺に、同様の、水面の高さで切断された礫がある。 滝面:現在、下の段の滝しか残っていないが、ちょっと、特異な微地形がある。すなわち、地層は、下流側に向って傾く上総層群黄和田層の泥岩で、層理面が滝面になるのは、順層の滝の通例であり、珍しいことではないが、画像でも分るように、滝の末端が、水路方向に対して斜交している・・・通常、直交するか平行する。逆層の滝の場合はまず斜交することは無い。 このような現象は、順層の滝の場合、時に見られるようであり、遷急点が後退するに当たって、下刻+側方移動する際に、地層が順層の場合は、側方移動が大きく、逆層の場合は側方移動がほとんど無いという、動き方の異なりの結果であろう。 行き道:大多喜より勝浦に向かう国道の脇にあり、佐野のバス停四ツ石(滝の四石にちなむと思われる)前の道を下り、滝見橋(画像の橋)の手前より滝下に降りる踏み跡あり。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『夷隅郡誌』。 |
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1984年年賀状 沢山不動滝 三芳村 平久里川水系 成因:支流型の滝 滝面:直線型連瀑 | |||||||||||
謹賀新年 昭和59年1月1日 沢山不動滝 所在地:安房郡三芳村長沢 沢山不動堂の下 水系:平久里川水系。増間川支流長沢の比高20mの遷急点。 成因:支流型の滝 時期:増間川本流の遷急点と同時期のもの。 岩質:保田層群の砂質泥岩、順層 流域面積:1.05ku 瀑布帯:下滝1〜4(各1m)、本滝(3段9.5m)、上滝(2.5m)の6つの滝よりなる。 下滝1の直下には埋まった大きな滝壷があり、以前の滝の跡を示す。 本滝は、連続した滝と釜の段をなしている。この滝上に、大きな滝壷のある上滝(2.5m)がある。 写真は本滝。本滝と上滝は、直線区間にあり、4段の滝が直線型瀑布帯をなしている。 滝面の微地形:滝の段と泥岩層との関連が認められる。 また、画像手前の滝の頂部は、滝壺の前面の滝面が破壊された形で、このような滝面の途中に滝壺を作っているタイプの滝には、よく見られる特有の微地形である。 人とのかかわり: 上滝の滝壷岸壁には、不動明王像(明治以降の作)が置かれ、滝上の不動堂から本滝上へ(上滝の下)に行く道には、シメ縄が張られている。 最近、すっかり観光化されていて、遊歩道までできています。 滝の初出:以前より、不動堂のご神体ですし、地元では、「七ツ竈」とも言われてよく知られていたと思います。しかし、最近まで世に紹介されることが無く、房総の滝調査の草分け、君島安正先生が、「安房地方の滝」(千葉県山岳連盟(1977)『房総の山 第二版』多田屋発行 所載)で、紹介されたのが最初だと思います。 |
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1983年年賀状 伊戸の滝 館山市 小河川 成因: 隆起海食崖型の滝。 ・・・使った写真はどこかへ行ってしまって見つからないので、別の画像で代用。 |
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新年おめでとうございます。 昭和58年1月1日 伊戸の滝 所在地:館山市伊戸 緯度経度:北緯34゜57′22″ 東経139゜46′50″(日本座標) 地図は⇒ここ 落差:32m 流域面積: 0.17 ku 滝の成因: 隆起海食崖型の滝。この滝は、約5000年前の縄文海進の際に作られ、現在は地震隆起によりすっかり陸化した化石海食崖にかかる小谷の懸谷である。 滝面の侵食 近景写真に見られるように、植生に覆われない岩盤露出表面の層状の剥離・崩壊が起こっていて、水流による線的な侵食微地形は認められない。 河川水量が少なく、滝の後退も少なく、10m以内の後退量しかない。 5000年かかって、10m以下ですので、全然元気がありません。 この滝は、水流侵食の結果としての滝面傾斜の減少(緩勾配化)がみられず、ほぼ同様の傾斜のまま後退を行っ たと考えられる。 小さな川では、川の働きは『岸壁に植生の進入を許さず岩盤を露岩のままにして機械的風化を継続させること、及び、岸壁の面的な崩落岩屑を運搬して崖錐 の成長を許さないことの2点が主であり、岸壁の後退は流水の作用よりも機械的風化(おそらく岩石の乾湿変化による破壊)により生じた崩落による』とまとめ ることができる。 瀑布帯:この滝の下流にも、3mほどの小滝があり、この滝は地震隆起による滝。滝上に小さな滝があり、2連に分裂しているようである。 この写真は、1980/8 水があるときに撮影。滝の全体の2/3ぐらいしか見えません。 滝の初出:房日新聞 昭和54年4月1日号 南房総の伝説と名所・旧跡 安房の滝めぐり 伊戸の滝 が最初じゃないかなあ。 |
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上の写真では、滝の成因なんかがわからない近接写真なので、遠景写真を追加。 最近通りかかったら水が落ちていたので撮影したもの。 滝の懸かっている崖が隆起海食崖です。 詳しい紹介は、滝カードの方を見てください。 →こちらです |
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1982年年賀状 四方木不動滝 鴨川市(旧天津小湊町) 小櫃川水系 成因:崩壊による河道変更の滝。 ・・・使った写真はどこかへ行ってしまって見つからないので、最近の画像で代用。 |
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新年おめでとうございます。 昭和57年1月1日 四方木不動滝(よもぎふどうたき) 男滝ともいう。すぐ下流に、女滝沢が懸谷の滝:女滝(約30m)を作って合流。 所在:天津小湊町(現在は鴨川市)四方木 2.5地形図上総中野 水系:小櫃川の源流 大体の緯度経度は北緯35゜10′13″ 東経140゜08′43″(日本座標) 地図の場所は、⇒ここ ところで、国土地理院の2.5万地形図の滝の位置がぜんぜん違っていますのでご注意ください。 下の図参照。 比高: 12m。 地質:三浦層群天津層 泥岩 順層? 流域面積:2.44ku 成因:崩壊による河道変更の滝。・・・滝周辺の地形が不自然で、人工地形でなく自然の地形ですが、人工地形の川廻しの滝みたいに、現在の滝面の左手(画像の右方向)に旧来の峡谷地形が続いています。 滝ができた理由は、その峡谷が先で曲流した地点で、左岸側から斜面の大崩壊が起こり、峡谷がダムアップし、湖水化して、湖面が上昇し、右岸側の湖岸の低い部分に新河道を作ったことによる河道変更で、以前の峡谷壁から水流が落下して形成されたものです。 形成後の変化は、深い滝つぼを作った以外は、滝の後退はご覧のように.2〜3mで、少ない。 滝面も右半分がオーバーハングして、副滝化が始まっているが、複合型にはまだなっていない。 人とのかかわり:大正時代の君津郡誌の文章:「君津郡龜山村大字四方木字田代に在り、一名不動瀧と稱す、小櫃川の上流此處に來り二絛の瀑布となりて直下す、左を雄瀧、右を雌瀧と稱す、高さ各四丈餘、濶さ 雌瀧は一丈二尺、雌瀧は六尺ありて頗る壯觀なり、雨ふれば其の勢數倍す、故に里人木材を筏に造りて瀑下に置き、雨を待ちて流下せしむ。」 滝面のオーバーハングしたところに以前は、不動像が祀られていたが、現在は上の駐車場の所に社を造って移動している。 地元の方の談:「滝つぼの深さは4m以上あると思う。ご幼少のみぎりは、この滝つぼにみんなで潜って遊んで、赤い実を投げ込んで、潜って取ってくるのを競ったものだ。」とのこと。 画像は、大雨の最中で、水流壮観です。 行き道:観光化され遊歩道なんかもありますけど、鹿の増加に伴い、滝つぼ周辺は、「山ヒルの宝庫」となっています。遊歩道から出なければ、襲われないみたいですけど。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『君津郡誌』だと思います。特筆すべきは、脇水鐡五郎先生が地質学雑誌11巻127号 p142-144に、脇水鐡五郎(1929):農科大學千葉縣下演習林内男瀧及び女瀧の成因に就て という、この滝の成因についての論文を出していること。 房総の滝の論文の最初です。 |
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<新発見>060314 不動滝の位置が、新しい2.5万で記入されていました。 ↓ 今まで、記入されたことを知りませんでしたが、 位置がぜんぜん違います。 どうしてこんなに間違えることができるのか、まったく不思議ですが。場所はこっちですので、ご注意ください。 困ったものですね。 (ーー;) |
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1981年年賀状 瀬越滝 大多喜町 夷隅川水系 成因:平凡な支流型の滝。 | |||||||||||
新年おめでとうございます。 昭和56年1月1日 瀬越滝(せこしたき) 名前の由来:なんか由緒ありそうですが、この付近の小字が瀬越。以前、街道が、西畑川南岸の弥喜用からこの付近で西畑川を渡河して北岸に移ったので小字名瀬越となった。滝の名はその小字名をつけたもの。地籍も、西畑川の対岸の弥喜用の飛び地である。 所在:千葉県夷隅郡大多喜町弥喜用 所在。 水系:夷隅川の支流西畑川に流れ込む小支流 比高 2連9m。 岩質:上総層群黄和田層 泥勝ち砂泥互層。緩い逆層 位置:北緯35゜14′55″ 東経140゜13′42″(日本座標) 大体の場所は ⇒ここ 流域面積:1.28ku 成因:平凡な支流型の滝。 夷隅川本流の河床から2番目の段丘面(第4段丘面)に対比される。 変遷:本流の合流点から、約75mの峡谷をなしており、滝上の河床の高さは、この付近の西畑川沿いの河岸段丘が5段あるうちの上から4番目の段丘面に対応する。第2段丘が沖積面トップと思われるので、第4段丘は3000年ぐらいと思われる。そのぐらいかかって、滝が75m後退したことになる。あまり元気ではない。 変化:この滝(本滝)の下に2mの下滝があり、本滝も分裂間もない上滝1.5mと本滝7.5mの2連の滝(幕瀑)となっているので、比高11mの3連瀑布帯の本滝である。いずれも屈曲点立地。 本滝と下滝の下には立派な全面滝壺がある。本滝の滝壺はこの時点で、埋まっていた。この滝壺には、大蛇伝説がある。 滝面は、逆層の泥勝ち砂泥互層の典型ともいえる、急傾斜で細かい凹凸がある表面形をしている。 この写真の後、1990年ごろ、滝面と反対側の滝崖が大崩壊しさらに滝つぼが埋まってしまった。 対照的に、この滝の滝面は、現在と比べてみても、目立った変化はない。 この写真は、千葉県の滝の良さを最初に発見して、精力的に調査された、房総の滝調査の草分け、神奈川県逗子市在住の君島安正先生とご一緒して、撮っていただいた写真です。1980年。 出してみたら、25年前の写真なんで、変色して赤みがついていました。無理やり赤みをとったら、青くなってしまった。写真の時も仕上がりがこんな感じだったから、これで出しますけど、人間の目とはだいぶ違って見えますね。 なお人物は、25年前の滝おやじ。スケール代わりです。このころは髪が黒かったなあ。 行き道:県道の脇にあり、滝下のポンプ小屋への踏み跡があるのでそれで行けば楽に行けます。県道脇にあるなかなか立派な滝です。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『夷隅郡誌』だと思います。 |
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1979年年賀状 太海不動滝 鴨川市 名馬川水系 成因:隆起海食崖の滝。 ・・・・これを滝の年賀状を作ろうと思わないで作って少数出したような気がします。 |
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あけましておめでとうございます 昭和54年元旦 本年もよろしくお願いいたします。 太海不動滝 名称: 大字太夫崎にあり、大字太海にないが、この太海は、大正期の行政村の太海村のこと。 太海村の不動滝の意味である。今の感覚では、太夫崎不動滝といってもいいと思いますが、安房郡誌に出ている名前を尊重しました。 記録: 『安房郡誌』には、「太海村大字太夫崎字大川戸に在り、大字天面の山間より溌する渓流此處に來りて直下す、高さ三丈濶さ四尺にして下流名馬川に合す。傍に不動尊を安置す。」とあります。 海食崖型の滝としては、立派な滝と言えるでしょう。降雨の後に行くと、水量が大になり、立派です。 所在:鴨川市江見太夫崎 名馬川水系 位置:北緯35゜03′43″ 東経140゜04′42″(日本座標) 大体の場所は ⇒ここ 景観: 落差:19m 条瀑 流域面積:0.89ku 岩質:保田層群青木山層 泥岩 逆層 成因:隆起海食崖の滝。 滝面:線滝 円弧状 4連(下滝1,2 本滝、上滝) 本滝は、直下型。 変遷:滝が形成され始めた海食崖面より、約50mほど峡谷を作って後退している。 峡谷の流路形は、断層に沿って掘り込んだ平面形をしている。 行き道:国道の鴨川道の駅の近くの、波きり不動堂の境内より見える。滝の下には、境内より降りられる。ロープで確保した方がいい。 滝の初出:『稿本千葉県誌』『安房郡誌』。 |
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<県外の滝> | |||||||||||
2017年年賀状 県外 奈々久良の滝 茨城県常陸太田市折橋 里川水系 成因:源流の涸滝が河川争奪で水量増加 この年は、県外のみ。・・・県内の滝は作らず。 |
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謹賀新年 2017年正月 本年もよろしくお願い致します.。 去年最後に訪れた滝です。竪破山巨石調査の際に立ち寄り。 奈々久良(ななくら)の滝 茨城県常陸太田市折橋所在。 阿武隈山地南部竪破山の山腹、里川水系天竜川支流大沢の源流の一支流にある。 阿武隈花崗岩の岸壁に懸かる3連の瀑布帯で、瀑布帯全比高約16m。 この滝の上流で河川争奪が起こり、涸れ沢が常時水流のある流れに変わった為に発生した滝です。 元々は、支流涸沢の谷頭岸壁に懸かる源流の涸れ滝(滝タラズ)であった。上流で河川争奪が発生し、流域拡大により水量が増大し、それまで岸壁にあった涸れ滝に、常時水流が流れるようになり、滝が懸かるようになったもの。 下滝1(1m)、下滝2(4m)本滝(11m)の3連の瀑布帯。 画像は本滝(F3)、11m。 滝からの水が流れ込む大沢には、ほとんど水がないし、他の支流も涸れ沢なのに対し、この瀑布帯だけは、年中水が涸れず、竪破山の奇瀑といわれた。 まあ、河川争奪という特例現象の故に小さな沢に似合わぬ水量があり、また、この滝の地点だけが広い岩盤(未風化の大きな埋没コアストーン)上を流れるので年中水が涸れず、当時から奇妙な現象だとされていたのでしょう。 なお、意外にも、阿武隈山地の滝には河川争奪が絡んでいることが多い。 |
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黄色:本来の流域。 緑色:河川争奪で拡大した流域 <滝の諸元> 水系: 里川水系天竜川支流大沢の源流。 流域面積: 0,1ku 。 位置 :北緯36°42′49.17″ 東経140°32′57.25″(世界座標) 地質と滝面岩質:阿武隈花崗岩鳥曽根岩体 黒雲母花崗岩(多分。採取し忘れた) 滝面は節理面に沿って割れた破断面、 いわゆる苔に覆われていて露岩面がない。 滝面形状:下滝1(F1)滝高1m、滝幅1m。 下滝2(F2)滝高4m、滝幅1m。 本滝(F3)滝高11m、滝幅5m、景観:簾瀑 滝壺:埋まった浅そうな全面滝壺(マサ砂で 埋まっている) 成因・変遷: 滝上流の河川争奪による、水量増加 により涸れ滝が滝となった。 滝形成後の侵食はほとんどなし。 形成 特に目立った水流侵食形はない。 滝上からの土石流暦の流下はなく、 マサ砂のみが運ばれているようだ。 <やり残し> じつは、肝心の争奪地点の地形を確認していません。 私も歳で、体にねばりがなくなり、滝下で、「あそこを行けば滝上に行けるなあ」とは思ったが、単独で行く自信が無く行きせんでした。(-_-;) ・・・主滝の上流に低い上滝があるかもしれません。 どなたか踏査お願い致します。争奪地点の地形なんかはどうなっているんでしょうかね。 |
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3連の瀑布帯断面。 |
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<奈々久良の滝:年賀状文面の補足>
南からは、竪破山登山路の駐車場から川沿いの林道を進み、峠から遊歩道を道標に沿って進めば良い。 多くは竪破山登山のついでに太刀割れ石経由で回ると思う。 直接滝だけ行くには、北からのルートの方が楽です。道標等は全くありませんが・・。 常陸太田市折橋から大沢沿いの長い林道(川はマサ砂の渓流で綺麗ですが、洪水には弱そうな道です)を図の駐車場(というか車止めのある広場)まで延々と車(軽自動車をお勧めします)で来て、川沿いの林道を歩く。 滝下は休み場風に整備されていたが、滝上に行く道はなさそうでした。 南の登山ルートは賑やかですが、北は「人跡まれ」という感じ。 新緑や紅葉の頃は良いルートだろうなあ。 |
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・滝の紹介 江戸時代から、竪破山の三滝八奇石として名がある名所の三滝の一つ。当時は不動滝と呼ばれていたらしい。 記録としては、元禄4年(1691年)の争論絵図に記されている。 右図は絵図をトレースした図に筆者注記したもの。 トレース図は、鯉渕節子(1995)竪破山を歩く はじかみ 20 p17〜20 より引用させて頂きました。 三滝の内、他の二滝は全く知られていないようですね。 |
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・滝の谷全景:滝形成後の侵蝕はほとんどない 右図は、林道から見た瀑布帯と谷の全景。 F1(低いのでほとんど見えない)、F2、F3が見えます。 谷頭の岸壁にF3が懸かっています。 その下流の両岸は両方の斜面からの崖錐が発達しています。 滝左上の白い立木の後が滝の上流の流路で、以前は涸れ沢だったのが、河川争奪して、争奪で増えた水が常時水流となり滝となって争奪以前の谷頭の岸壁を落ちています。 瀑布帯部分では露岩上に水流がありますが、滝下ではマサ堆積物の中に伏流してしまいます。 この谷は、滝下の斜面から側方から崩れてきたマサ砂と岩塊からなる崖錐でほとんど埋まっています。 つまり、滝上流から流れてくるのは少量のマサ砂のみらしい。 また、F3やF2の滝面とその両岸の滝崖とは一連で、滝面が凹んでいません。すなわち、滝が後退していないといえます。 つまり、滝上から土石流堆積物も流れてこない、水流とマサ砂ぐらいしか流していない沢なので、 侵食力がなく、滝ができた後も、ほとんど侵蝕後退がない地形と言えます。 (以上) |
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2011年年賀状 県外 白糸の滝 長野県軽井沢町 湯川水系 | |||||||||||
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2008年年賀状県外 トッカケの滝 福島県いわき市 夏井川水系 県内と県外 2種類作ったうちの1つ。 |
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謹賀新年 本年もよろしくお願いいたします。2008年正月 トッカケの滝 福島県いわき市 夏井川水系江田川。阿武隈山地南部を流れる夏井川水系の峽谷、背戸峨廊にある滝。 位置:大体の緯度経度は北緯37゜11′04.61″ 東経140゜49′56.81″(世界座標) 地図の場所は→ここ 流域面積: 11.86ku 滝の立地 背戸峨廊は、下図のように、夏井川の支流加路川を夏井川支流江田川が河川争奪して形成した長さ2km、比高250mの遷急区間。 その中に、最高20mの滝など、多数の滝があり、7つの瀑布帯をなす。岩質は節理間隔の狭い花崗岩。 遊歩道があり、川通しで滝を観察しながら遡行することができる。 トッカケの滝はそのひとつ。 比高11,3,1,4,3,3mの総比高25m、6連の降順連瀑瀑布帯(トッカケ滝瀑布帯)の最初にある、11mの本滝。 降順連瀑の最初の滝なので、滝面の後退がほとんど見られない。 滝面は花崗岩の断層面を掘り出したもの。 |
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基図(カシミール3D添付の国土地理院5万分の1地形図 川前)上に加筆。 By Yoshimura M. |
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2006年年賀状県外 夢の滝 東京都桧原村 秋川水系 県内と県外 2種類作りました。 |
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謹賀新年 2006年 正月 今年もよろしくお願い申し上げます。 夢の滝:珍しい富士山型滝面の滝 三頭沢のF1.滝名は観光名。 東京都桧原村数馬 秋川の源流、三頭沢所在 位置:大体の緯度経度は北緯35゜43′46″ 東経139゜02′34″(日本座標) 地図の場所は、⇒ここ 流域面積: 3.08ku 奥多摩の三頭山山麓にある。比高 8.5m。 地質:中生層の細粒砂岩ホルンフェルス 滝面が扇状地状の末広がりの形をしていて、そこに、両溝型の溝が掘り込まれている。川が直角に曲がる所にあり、滝下が広い谷になっていて、滝の比高が小さいなどの特殊な立地の場合にできる形で、富士山型滝面(新称)と呼びます。 |
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2005年年賀状県外 丸神の滝 埼玉県小鹿野町 荒川水系 成因:支流型の滝 この年は、県外のみ。・・・県内の滝は作らず。 |
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謹賀新年 2005年正月 昨年は色々とお世話になりました。 今年もよろしくお願い申し上げます。 埼玉県小鹿野町(旧両神村) 丸神の滝: 支流型の滝 位置:大体の緯度経度は北緯35゜59′16″ 東経138゜53′07″(日本座標) 地図の場所は、⇒ここ 流域面積: 0.93ku 岩質は秩父系の砂岩。3連76mの連瀑、3連目が主滝で50mの溝状急斜瀑。 対岸より滝下を除く滝面ほぼ全部を望む。 荒川水系小森川の支流にある。 滝の立地:一見、チャートの薄層などの硬岩層があって、侵食がすすまず単一の巨瀑を作っているのかなあ、と見えますが、どうも硬岩型の滝でなく(滝上に上れないみたいなので確実じゃないですが)、断層の破砕帯を掘り出した断層面にかかる滝みたいですね。 つまり、滝より下流(画像の左方)は断層線に沿って掘り込んだ深い峡谷となり、峡谷の上端で川が断層線を外れて直角に曲がり、峡谷斜面=掘り出された断層面起源の急斜面 に滝を懸けるようです。 滝下広場は画像右手の、断層破砕帯の崩落崖からの崩落巨礫で埋積されている。 |
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丸神滝付近の断層線予想図。 細かい地質図がなくて、断層線の位置が明確じゃないのですが、丸神の滝付近の谷が断層を掘り出した谷なのは現地で見て間違いないと思いました。・・・・ 滝の右手山腹(図の丸神の丸の字の上の○印)に断層起源の崩壊が見え、滝の下流の谷壁が断層面起源だと思います。 周囲の関連する断層関連の線構造を読図してみました。 緑線は、山脚と谷の遷急点からひいたもの。 青線は、譲沢の東方まで、引かれている断層に連続すると思われる西の延長を引いたものです。 ・・・補足・・・青線は、丸神滝より西では、976の北西の尾根の山脚と976の西の沢の屈曲点を繋いだ線かもしれません。あるいは両方あるかも。 露頭で確かめなければ、2本とも断層が存在すると言い切れません。緑線の方は侵食前線の可能性も高いですね。 丸神滝の下流の断層地形がどちらの断層によるのか、あるいは、2本ともあるのかは、何ともいえません。 もし、緑線が侵食前線によるもので、青線が断層だとすると、丸神滝の支流だけが大きな単一の滝を作っているのに対して、他の支流では、地形図から見ると、支流遷急区間が瀑布帯になり、大きな単一滝がないらしいことを、きれいに説明するかも。 また、緑も青も2本とも断層が存在すると言う場合は、断層の合流により破砕帯の幅が大きくなったことが、原因と言えるかもしれません。 どちらもありえる話だと思います。 国土地理院2.5万地形図「三峰」より作図。 |
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2003年年賀状県外 落合三つの滝 山梨県甲州市(大和村) 日川水系 成因:懸谷の滝 | |||||||||||
謹賀新年 2004年正月 本年もよろしくお願い申し上げます。 落合三つの滝: 花崗岩タイプの滝面と、ホルンフェルスの滝面 山梨県甲州市(大和村) 日川水系、支流焼山沢が、本流の日川に合流する懸谷の滝。 位置:大体の緯度経度は北緯35゜39′07.5″ 東経138゜48′50″(日本座標) 地図の場所は、⇒ここ 流域面積: 6.59ku 下から見えるのは4連の連瀑が見える。下流から、測定値です。 F1:10m〔左の画像〕、F2:4m〔右画像の手前〕、F3.4:7.5mと4.1m〔右画像の奥〕 で総比高 27m。 画像のように3つに見えるから三つの滝なのでしょう。 落合三つ滝とまとめて呼ぶなら、落差 27m。ということになりますが、結構離れているし、下から3つとも見えるということもないので、普通に考えれば、3つに分けて、一の滝10m、二の滝4m、三の滝11.5m(2連)というほうがふさわしいと思います。 岩質は、F1の下部は花崗閃緑岩。F1の頂部から上が、取り付けないのでわかんなかったが、ホルンフェルスらしい。 狭い幅の滝面ですが、壁状平滑な滝面と、細かい凹凸の多い溝状の滝面の差は、よくわかります。 以下は、以前作った、観察会下見アルバムから転載。 |
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落合三ツ滝の推定地質断面図。 ・・・・ホルンフェルス(硬岩)が、滝の形成にどう効いているのか? を考えてみました。 水平0m地点は、日川の合流点。 地形断面は、測量しましたが、間接測量なので、精度がやや落ちます。 懸谷の滝が侵食が進んで支流型の滝の瀑布帯になっていることは、一目で分かります。 ところで、岩質は滝面の所を遠目で見ての推定。滝の間の河床の岩質は?で、地下でどうゆう構造になっているかは、全然分かりません。また両岸の岩質も取り付けないので分からない。 千葉県の谷のように、堆積岩なら、地層が連続してるから河床さえ見ればそれの連続ということで谷壁の地質も推定できるんですが、花崗岩とホルンフェルスの接触部分となると、混じり合った立体的な構造してるから、河床も谷壁も全部にさわって確かめないと、どんな構造なのか想像もできません。ところが、気軽には取り付けないんですよね・・危なくて。 ・・こうゆうのは歳取ってからやる仕事じゃないですね。 ・・・猿でも飼い慣らして助手にしたい。 <考察>その辺が分からないので、「ホルンフェルスが、硬岩としてキャップロックになっているので滝ができた」と既成観念で速断するのは危険。 F1はそうかもしれないけど、F2〜F4には当てはまりません。むしろ、F1より上の侵食量が大きく、ホルンフェルスの部分の方がたくさん削られている、ようにみえることに注意する必要がある。 たとえば、滝上の空中になっている所が、花崗閃緑岩だった可能性もあり、そうすると弱岩を掘り出した滝になる。ホルンフェルスの侵食は見せかけということになります。こっちの可能性もかなりあります。 まあ、結論出すには、データ不足です。 |
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2002年年賀状県外 銚子口二段の滝 山梨県鰍沢町 大柳川水系 成因:懸谷の滝 | |||||||||||
謹賀新年 2004年正月 本年もよろしくお願い申し上げます。 銚子口二段の滝 山梨県鰍沢町 支流懸谷の滝。 位置 北緯35゜30′42″ 東経138゜22′57″(日本座標) 大体の場所は ⇒ここ 流域面積:1.41ku 地質:巨摩層群桃の木亜層群。 櫛形山断層に沿う断層線谷に落ち込む支流の合流点にあり、まさに、断層面起源の谷斜面に懸かる懸谷の滝。 この滝は、富士川水系の大柳川の瀑布帯(比高30m:天ヶ淵の滝など)より2kmほど上流にある、支流懸谷の滝。 比高42mの滝で、・・いい滝ですね。 雨が降って来てとりつけなかったので、それ以上のことは、わかりません。降ってなくても、でっかくて、取り付く気にもならないです。 大柳川渓谷は、地質が、第三紀の海成層という点でも、房総半島の川と似ていますが、最新の遷急点と深い峽谷地形 という所も、房総と似ている谷です。 滝が、奥多摩のチャート滝のように「美人だなー」という感じがしないところは、房総丘陵の川と同じ岩質だからでしょう。 健康そうなおっぺし娘という感じ。 |
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