下総地方010 ●香取市長岡 長岡滝不動尊の滝(男滝) 2011年探訪 |
● 概要 ● 滝の諸元 ● 交通ルート ● 調査記録 ● 発見史 ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財 ちばの湧水めぐり hp千葉の大地 ● 歴史遺物 <現状・概要> 不動堂 不動明王像 男滝の竜頭 手洗い石と女滝竜頭、 女滝の跡 籠所 水田の水源用水路 考察 1.江戸期の姿を復元する 2.昭和期以降の改変 ---ここ迄作成済み 20130207(一部修正20130218) ● 地学現象 地下水 地質と地形 地質の概要 不透水層と地下水湧出 地形の概要 男滝湧水点の微細地形 地層の対比 考察 ●用語 倶利伽羅不動 藪層、木下層 宙水 ●参考論文 ●画像アルバム |
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概要 | |||
「山田町歴史と文化財」(2005) に紹介されている泉。 2.5万岩部図幅の原宿集落北の寺記号が滝不動尊。 人里に近い泉であるが、不動尊に行く道は、2.5万地図に記入のない農道で、雨後で甚だ心許なかった。 台地を刻む開析谷の谷頭の崖にあり、崖中腹の湧水を導水して、龍頭から落下させている。落差4,0m。 以前は男滝・女滝の2つがあったが、女滝は手洗水用に改造して、現在男滝のみ。 平成4年に男滝の上からの崩落で破損修復。 滝の湧水導水管や竜頭の台、傍らの倶利伽羅不動像(全てコンクリート製)も改修され、落下高さも高くなっているようである。 この不動尊は滝の水行場として江戸時代に整備されたが、明治後期以降、滝行の衰退により荒廃していたが、昭和初期に篤志家により再興されたとのことで、その後も改修が加えられ、下総の滝の中では珍しく、状態の良い滝である。最近の滝の改修は平成4年の崩壊被害の復旧工事。 湧水量は、あまり多くない。 崖の湧水層は、層厚3.2mの泥層。下総台地の基底を構成する下総層群藪層(注)上位の砂層中の局地的泥層で、その上面から湧水している。 周辺の下総台地は、沖積低地からの比高30mほどの台地である。滝不動尊では、台地表面から10m程下の台地の中腹から地下水が湧出しており、沖積低地面に対応する一般の地下水面より、局地的に湧水面が高くなっている。この状況から、台地を作る厚い砂層中の局地的な泥層によって局地的・季節的に地下水面が高くなる宙水(注)型の地下水が湧出しているものと思われる。 下総台地西部は滝が少ない地域で、人工滝とはいえ、宙水という局地的な現象による希少な滝といえる。 また、 江戸時代の水行場が、当時の姿を想像できる姿で残っている点で興味深い。また、下総台地の滝は、すべて泉を加工した人工滝なので、人手をかけないと荒廃してしまい、現在では、痛んでいる滝が多い。この滝は、現在も信仰に支えられて,管理が良く、状態の良い珍しい例である。 用語参照 ⇒倶利伽羅不動 ⇒宙水 ⇒藪層 |
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滝の諸元 | |||
滝の名称 長岡 滝不動尊の滝(男滝) 所在地 香取市長岡 滝の入47 水系 利根川 黒部川 渓流名 − 立地 下総台地を刻む開析谷の支流谷頭 標高34m付近 (図2参照) 地図 2.5万 岩部 緯度経度 北緯 35度47分41.8秒,東経140度35分53.9秒(世界測地系) 流域面積 0平方ku 滝高 4.0m 地層 下総層群藪層の局地的な泥層 岩質・構造 泥層 水平層。 成因 地下水型(人工)。宙水が谷頭斜面より湧出しているのを人工導水。 変遷 ― 滝面 人工 年代 江戸時代以来の水行場で、長岡文殊院(現大経院)が別当の滝不動尊であったが、明治大正と衰微。昭和10年代に再興。 |
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交通ルート・調査記録 | |||
2.5万地形図は「岩部」図幅。 図2に、詳細位置を示す。 標高45mの平坦面の下総台地を刻む開析谷の谷頭部、標高34mの所にある。 地図には、滝不動尊の位置は寺記号で示されているが、そこへ行く参道は2.5万地図に記入がなく、すぐ近くの原宿集落から行く道も見当たらなかった。 探したすえに見つけた参道は、長岡の集落より、谷の下流側から行く農道で、図2に記入した赤線の位置にある。 入り口には旧山田町(合併して香取市)教委が建てた、朽ちかけた木の道標があり、「名勝 不動尊」と読める。農道は、未舗装だが、小型車なら境内まで行ける。 滝の背後の崖上の集落は、長岡でなく原宿で、一見、原宿集落の不動尊のように見えるが、谷津田と谷津田斜面は、下流の長岡集落の領域で、台地面上の原宿とは別になっている。別当寺も長岡であり(後出)、現在管理している方々も長岡の人のようである。 <調査記録> 調査・撮影日 2011/03/02 2011/11/12 2013/02/12 野帳20-26 20-42/44 22-20 記録2011/03/03 2011/11/17 2013/02/12 |
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発見史と既存文献 | |||
<発見史> 信仰施設としては、「ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財」 寺本 和編集・発行2005年」に、滝不動尊の滝として紹介されたのが最初。 それ以前は、大正年間の香取郡誌には記載がない。戦後の山田町史には簡略な記載で、滝については記述無し。 また、入口の標柱の注記から、山田町教育委員会が、山田町の名勝としたととれるが、これについても不明。 湧水としては、千葉県史(1997)の地下水の章で、泉の一覧表の中で取り上げられ、その後、「ちばの湧水めぐり」崙書房 2010 水環境研究所編著 にて紹介された。 ふるさとのあゆみ 山田町の歴史と文化財 寺本 和編集・発行 2005年・・・より引用。 (筆者注) 縦書き→横書き につき漢数字→算用数字。 第16 長岡(東)地区の文化財 2、滝不動尊 所在地 山田町長岡東字滝の入 境内は袋状凹地で三方が樹林に囲まれ、一方は水田に面し、面積約400u(120坪)である。清水が湧き出る滝が二つあり、一つは男滝で落差約3米あり静かな響きを立てている。その二は女滝で平成に入ってから手洗いの水に使用され女滝はなくなっている。 不動明王石像が約2米四方の小堂内に安置されており、籠所(こもりじょ)と呼ばれる間口約8米20p(四間半)、奥行約4米50p(二間半)の休息所がある。男滝近くに、倶利伽羅不動明王木像(龍身が剣を絡み昇る像)と同王のコンクリ−ト製がある。また、片岩に陽刻した小仏像の板碑が堂内にある。 不動明王石像は、高さ約2米、像背に「奉納十六夜待二世安楽所、奉納二十一夜待二世安楽所、奉納十九夜待二世安楽所 長岡村別当文珠院祐存之造る」と刻まれている。江戸時代建立の石仏と思われ、明治始め頃五寺を統合して大経院と改称したが、その一寺が文殊院で滝不動尊の別当であった。小さな不動明王石像には、江戸時代後期の「天保十五年(1844)九月吉日」と刻まれている。 (筆者註)現在、堂内の見えるところには像高140-130cmの不動石像が一体ある。文章記載の板碑らしきものがあるほか、倶利伽羅不動と思われる木柱状の像が立てかけてあり、鈴木善二郎氏が掘り出した木製の倶利伽羅不動ではと思われる。 (筆者註) 倶利伽羅不動って何? は、用語参照→ここ 2mもの大きさはないので、不動堂内の石像は、天保15年の小さな方の石像であろうか。2mの享保以前の古い石像は、他所に移されているのではと思う。籠所かも。 文殊院は、現在の長岡地区た大教院の位置にあった天台宗の寺。 祐存は、文殊院住職 享保15年没という。・・・下記「第十七 長岡(郷)地区の文化財」参照。 木彫りの倶利伽羅像は、昭和10年頃長岡の本城善二郎が夢のお告げで同所滝壷から掘り出したもの、コンクリ−ト製像は発掘直後頃同人が長岡の寺本太十郎に依頼して制作献納したが、平成四年の崖崩れで破損したため造り替えられたものである。 不動明王が創嗣された年代は不詳であるが、伝説によると、奈良時代中期の天平年間(729−749)頃、弘法大師が東国巡錫の折り、境内の崖を杖で突いたところ滝水がほとばしり出たので、大師は庶民の幸福を念じ不動明王を祀ったと云われる。八日市場市大寺の龍尾寺にその由緒を記した古文書があるという。また、滝の台の原宿に不動院観音寺があり、前述文珠院が滝不動の別当寺となる以前は観音寺が別当として管理していたと云われるが明治初年頃廃寺になっている。 <補足 文殊院と祐存についての情報> 第十七 長岡(郷)地区の文化財 六.大経院 所在地 山田町長岡郷字代1935 大経院は、明治初年(1868)頃長岡村にあった日蓮宗妙蓮寺と天台宗の観明院、文珠院、普門院、大教院の五寺を統合して文殊院観音寺の境内に天台宗大教院を創建した。ところが、明治政府は、文部省の前身を大教院と称したため省名と同じ寺名を変えるように指示され大経院と改称、現在に至っている。本尊は阿弥陀如来である。 (二)文殊院の槇の大木 境内にある「イヌマキ」は、目通り周囲約3米10p、高さ約15米、樹齢不詳であるが、木振り、枝振りの見事な木姿である。 文珠院の創建年代は不明であるが、古文書に、「室町時代後期の文亀二年(1502)二月七日文珠院の覚永和尚が亡くなった」旨記されており、それ以前に建てられていた寺である。 槇の大木は、「江戸時代中期の享保15年(1730)7月15日に亡くなった文珠院住職祐存権大僧都」が栽植して、同境内にあった琴平権現宮「大正四年(1915)稲葉山神社に合祀」の御神木視されて、崇められていたものと言われる。樹齢は約250年と思われる。
42 滝不動 歴史を偲ばせる湧水の滝 香取市長岡 北緯 35。47′42.3東経 140。35′53.7 <アクセス> 県道125号を香取市山田支所から干潟方向へ約2km。さらに農道を500m。十字路に標識あり。 香取市山田支所から車で「府馬の大楠」のある方向に向かって、長岡の集落に入ると、滝不動の道標があります。小さな谷津の谷頭にお堂があり、見上げるような龍の像から滝となって水が流れ落ちています。周辺の斜面林も不動尊堂も立派に整備されています。 寺本和編集発行(2005)の「ふるさとのあゆみ山田町の歴史と文化財」によると、男滝(落差3メートル)と女滝があったが、女滝は、平成になってから手洗水にしてしまったそうです。 伝説によると、天平の頃(8世紀)、弘法大師東国巡錫のおりに、境内の崖を杖で突いたところ、水が湧きだし、大師は、庶民の幸福を念じて不動明王を祀ったといわれています。 地元の話では、この湧水は、平成10年頃に一旦涸れたけれども、数年前に復活したそうです。 下総層群 崖 龍型パイプ 水温18℃ 電気伝導度 33.0 mS/m 湧出量 B 調査日 平成18年 7月11日 千葉県史より抜粋したのが、下のHP hp千葉の大地 http://www.tateru.co.jp/library/daichi/yusui.html (2011年4月18日確認) より引用 千葉の湧水 千葉県各市町村の銘湧水 No2 山田町 滝不動 長岡字滝の入47 樹木の茂みに囲まれた長岡の滝(滝不動)は男滝と女滝があり、男滝の落差は約3mで、滝の口から静かな響きをたてている。土地の古老の言うには、弘法大師の東国巡礼の時、崖を杖でつくと湧水がほとばしり出て、庶民の現当二世の幸福を念じて不動明王を奉ったということである。 この滝不動は50年程前までは大藪で知る者も少なかったが、故本城善治郎が夢のお告げにより藪を切り開き、滝壺から倶利伽羅不動像を掘りだし、奉ったのが契機となり一般に信仰されるようになった。 (参考文献「千葉県の自然誌」財団法人千葉県史料研究財団編) (筆者註) 太線部分は、一時衰微していたとの情報。本城善治郎は本城善二郎かも。倶利伽羅不動像等については後述。 |
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歴史遺物の記載 | |||
現状と文書から、江戸時代の様子を復元する。 <現状・概要> 下総台地を解析する谷の谷頭部分を埋め立てて境内が作られている。 境内奥に湧水地点から導水して落としている男滝がある。男滝には導水管先に竜頭があり、滝の脇には、倶利伽羅不動像がある。 境内には、不動堂(江戸時代の不動明王像がある)と覆屋つきの手洗い石(水源は以前の女滝。竜頭はそのまま利用)、籠所がある。 江戸時代より、開かれていた水行場で、男滝と女滝があったが、一時廃絶し藪に埋もれていたらしい。昭和10年代、篤志家・故本城善二郎氏が竜頭や倶利伽羅不動像を寄進し整備した。建物、滝の造作等は平成年代に改修されて、いずれも新しい。 男滝女滝の湧出水は、それぞれ用水路によって下流の水田へ流されている。 |
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図5 境内全景 | |||
不動堂 不動堂は、平成年代に新築されたもの。 堂の屋根下に、「不動尊新築工事特志寄附者御芳名 金 参拾萬円 川口静殿 他35名列記」「16名列記」「篤志寄附者 町会議員本城秀夫殿 他 45名列記 寄付額総計 金 参百八拾萬五千円也 工事委員 委員長 本城正男殿 他 14名列記 他8名の寄附者」芳名板が飾られている。 新築前は、堂内の不動明王2体はそれぞれの滝の所にあったのではと思われ、籠所しか建物はなかったのではなかろうか。 不動明王像 不動堂内には、前提「山田町の文化財」には、2体の江戸期不動明王石像があるとのことだが、覗いてみた限りは、1体のみ見える。外から見るだけなので、銘文不明。石材は小松石みたい、玉眼がはめてあるが、後の細工と思われる。 像高が140-130cmなので、「山田町の文化財」にある2体の内、小さな方の不動明王像で、「天保十五年(1844)九月吉日」と刻まれている像ではと思われるが、確実ではない。 同書にある、背丈が高く、高さ約2米、像背に「奉納十六夜待二世安楽所、奉納二十一夜待二世安楽所、奉納十九夜待二世安楽所 長岡村別当文珠院祐存之造る」・・・祐存は、文殊院住職 享保15年(1730)没 の石像は移されているようで、見当たらない。こちらの像は、時代も古いし、十六夜待、二十一夜待、十九夜待を兼ねて建立という珍しいもの。 同書にある板碑らしきものも堂内に見える。また、堂内には、ずいぶん痛んだ木像の倶利伽羅不動と思われる木柱状の像があり、鈴木善二郎氏が、夢のお告げにより、50年ほど前に滝壺から掘り出した木製の倶利伽羅不動ではと思われる。 |
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図6 平成新築の不動堂 |
図7 不動明王石像(中央)と木製倶利伽羅不動像(左) |
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男滝の竜頭 長さ180cmぐらい。コンクリート製、洞髭つき。導水した地下水を口から落とし、落下水を作る水行用の龍頭である。 昭和10年代、篤志家・故本城善二郎氏が再整備した際に寄進した龍頭であろう。 倶利伽羅不動像 コンクリート製 洞の髭付き・・・石では無理な形。「山田町の文化財」によれば、昭和10年代、篤志家・故本城善二郎氏が、木製倶利伽羅不動を発掘直後頃、同人が長岡の寺本太十郎に依頼して制作献納したもの。平成四年の崖崩れで破損したため造り替えられたものである。 |
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図8 男滝の龍頭 |
図9 倶利伽羅不動像 |
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手洗い石と女滝竜頭、 手水鉢: 御影石製 60×100×45cm 銘文「奉納 昭和三十年十二月 林 正義 祖□書 南眞[龍作?]」←拓本とらないとわかんない。 龍頭: コンクリート製 洞の髭 水はサイフォンか 昭和10年鈴木善二郎寄進の雌滝竜頭を転用したものというものらしい |
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図10 手水鉢と覆い屋 |
図11 女滝の龍頭 |
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手水鉢の左後ろに泥層中にパイプが差してあり、そこから湧水している。 不透水層(泥層)中のシルト層が湧水層となっている。 このパイプが、かっての女滝の湧水点であろう。現在はパイプ口にさらにパイプを接続して手水石へ導水している。・・・・それが、さらに破損しているが。 以前の落差2.2m 湧水は、最終的には導水路により、籠所の裏手を回って、下流の水田に流れている。 ⇒ 図12 女滝の跡 ポインタを画像の上に置くと、湧水孔の拡大を表示 |
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籠所(こもりじょ) 滝行の宿泊施設 平成元年二月二日不動尊改修工事寄附御芳名者 の板があり、平成元年改修 その前は明治か江戸の建物。鈴木善二郎の再興以前からあった建物と思われる。 脚立は、男滝龍頭を間近に見るために筆者が持ってきたもの。(^_^;) 水田の水源用水路 女滝の水の用水路。 男滝の水も、別系統の用水路で下流に導水されている。 |
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図13 籠所 |
図14 女滝の水の用水路 |
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考察 <歴史のまとめ> 1.江戸期の姿を復元する 江戸・明治期にかけて、水行場は、寺院の施設として勿論信仰施設であったが、信仰の形を取った精神病の治療施設でもあり、病人と付き添いの人が籠もり堂に長期滞在して、不動明王を信じて滝で水行をすることによって治療していたようである。 水行に適した滝の立地は限られるし、精神病の治療施設という機能からも、滝の水行場はそんなに多くはなく、各郡に1つ2つぐらい程度に存在していたようである。 この滝不動尊は、谷津田水源の泉が、江戸時代初期に、長岡村の天台宗文殊院の水行場として整備され、男滝・女滝・二体の不動明王石像および籠り堂があったものと想定される。 昭和10年発掘の倶利伽羅不動木像も、その時期のものかもしれない。 また、後述するように、男滝は現在の高さ(落差4.0m)ではなく、落差3m程度であった可能性もある。 なお、原宿の集落側から台地斜面を降りてくる道はないようで、滝上の原宿集落とは直接関係ない施設なのかもしれない。 その後、おそらく明治末・大正時代には、水行の衰えと共に衰微し、藪と化していたのであろう。 江戸時代の水行場が、当時の姿を想像できる姿で残っている点で興味深い。 2.昭和期以降の改変 ところが、珍しいことに、昭和10年代に、篤志家の本城善二郎氏が、夢のお告げによって、滝壺から木造の倶利伽羅不動像を発見し、コンクリート製の倶利伽羅不動像や(竜頭も)を寄進し、再興した。 その後、不動堂も建立され、女滝は手洗石に改造(昭和30年)された。 平成4年男滝背後の崖が崩れ、男滝の復元や、コンクリート製倶利伽羅不動像修復が行われ、、現在に至っていると思われる・・・・崩壊地形の詳細は後述。滝がこの復旧で3m→4.0mに高くなった可能性あり。 境内は良く清掃されていて、不動堂には花なども供えられており、大事にされていると思われる。 下総台地の滝は、すべて泉を加工した人工滝なので、人手をかけないと荒廃してしまい、現在では、痛んでいる滝が多い。この滝は、現在も信仰に支えられて,管理が良く、状態の良い珍しい例である。 |
地学現象 |