下総地方002●船橋市金杉 滝不動の滝 探訪 |
滝おやじ記す。 1979/1980年の私の調査データ、&、天下井氏1983の文献による、滝不動の滝の説明です。 今から20年前のデータですね。文章として述べる機会が無く、HPに書くまで、20年も経ってしまったんだなあ。(^_^;)。 ●所在地図は省略。新京成線滝不動駅の西方500m。御滝不動か御滝公園を目指せ。 --------目次-------- 見どころ: その1 現在の滝は改築後 →すぐ下デス。 その2 江戸時代から有名な水行場の滝である →ジャンプ その3 信仰霊場の発生発展の様子がおもしろい →ジャンプップ その4 滝の作られた様子が分かってグー →トリプルジャンプ 滝不動の縁起とその考察(天下井氏による)を、引用してあります。 その5 スクープ、改装の時、私は、地質を見た! →疲れたがジャンプ その6 証言 子供のころ良く遊んだ、ばばっちさんの滝不動今昔 →ここに追加 ←new update 010718 データ おきまりのデータ →最後だジャーンプ |
その1。弘化4年(1847)に作られ、現在の滝は1979年改築の新滝 |
|||||||||||||
所在地は、船橋市金杉6丁目、通称、滝不動というお寺の境内が御滝公園になっていて、池があり、その池の水源になっています。近くに、京成線の滝不動という駅もあり、簡単に行ける。場所の地図は省略。 ● 現在(1980年)の滝の様子は写真参照。20年経ちましたがそんなに変ってないのでは。(^_^;) どなたか比較写真下さいませんか。(^。^) ● 下総地方の滝(地下水の湧水を滝にしたもの)は、滝の水の当たる所が、下総では硬い岩石が無く、自然のままにしたら滝がなくなってしまうんで、滝口は石や銅の龍にして固定し、落ち口は石で受け、滝の水のかかる滝面は、垂直な掘り込みの壁か石積みにします。だから、完全自然の滝というのはありません。手入れが必要。 ●あれ、龍の口から水が落ちてなくて、下に湧き口があります。 へんですね。水が枯れたのか?。ではなくて、この滝、1979年に改築されて、滝の石垣を新造し、高くして、龍も上に付け替えてしまったのです。以前は、水の出口のところに頭があって、龍の口から水がでていました。ということは、滝の底も浅くしてしまったんですね。 滝上の不動明王と両脇侍は、旧滝にもあって、移動されたもの 御滝山の不動は、成田山の座り不動に対して立ち不動といって立像で、成田山の不動の兄弟という言い伝えもあるとのこと(下記の文献による)。 右がコンガラ童子、左がセイタカ童子 のはず・・ |
|||||||||||||
●その2。江戸時代から有名な滝信仰の行場の滝です。 滝不動の滝トップに戻る |
|||||||||||||
戦前の絵葉書 千葉縣御瀧山不動尊清水の行場 |
明治3年(1870)落合芳幾画 滝不動の四季を描いた錦絵の1枚 夏 下總金椙御滝山不動堂境内御滝行場之圖 一勇斎芳幾筆 現品は、船橋西図書館所蔵 |
||||||||||||
上の写真と絵が、改築前の旧滝です。絵の石垣と写真のとは大部違うけど、絵だからね。(^。^) 両方とも、龍の口から水が出てますよね。当時は、水の出口から大部下に床があることが分かります。絵馬があって、落ち口の下に座って水をかぶっていた情景が書かれています。現在だと、はいつくばらないと水行できませんね。 絵の人物は、当時の粋な衣をはおった水行スタイルみたいですね。首から数珠みたいのをかけているようで、腹に巻いているのは何でしょう?。行者に引率されて威勢のいい漁師のお兄ちゃんたちが、揃いの晴れ着で繰り込んできて、水浴び参詣。その後は、船橋(女郎で有名だった)に繰り込むのかしら・・?。 滝不動(現在は、金蔵寺)は、不動尊信仰の滝の行場として有名な不動堂で、現在も、境内には、行者の石碑が林立しています。 江戸時代〜明治20年代まで、滝不動堂は別当金蔵寺と別でしたが、別当寺が滝不動堂に移転したため、現在は金蔵寺になっています。 滝めぐりのついでに、境内や公園を散策して、滝を中心にした信仰施設が集積してできている信仰霊場の面影を感じて頂きたいと思います。千葉県内では、もっとも大規模な滝信仰施設でしょう。 |
|||||||||||||
●その3。滝不動の発展の歴史が詳しく分かっています。→これ凄い。 滝不動の滝トップに戻る |
|||||||||||||
当時の滝は、「村の水源であるだけでなく、村を越えた地域の病院でもあり、観光地・遊楽地でもあった。」ことがわかります。 種本があって、天下井 恵氏の『金杉の歴史』、1983、船橋市立御滝中学校発行。という本があります。そこから、私流に書き抜いてみました。 詳しくは、図書館で原本を見て下さい。一つの信仰霊場が始まって発展していく様子がよく復元されています。滝不動を訪れる前にご一読なさっていくと「見れども見えず」のものが見えて、面白く見学できるだろうと思います。いい本ですね。 <滝不動の歴史要点> ■はじまる前 1。江戸時代初期、滝はまだ作られていなかった。現在地は幕府の軍馬牧場・牧の中、金杉村の水田の用水源になっている池(現在の弁天池)があり、野馬の水飲み場でもあった。 もともと、水源として、雨乞い等の場であったろう。
■〜広く認知されるまで:50年間ぐらい 2。滝行場が作られる:天和3年(1683)の前、あるいは、延宝元年(1673)ごろ、 金杉村金蔵寺の僧が池の近くの斜面の湧水地点で帯水層下まで掘って、6mの穴を掘り込み、滝に打たれるための水行場を作製。不動尊をまつる。 →初代の滝(今はない) →土中から慈覚大師御作の像ということになる。 →村で作ってしまった。 3。奇跡で有名に、常設信仰施設化 不動尊がまつられたころ、船橋村の市兵衛の鼻のできもの快癒の奇瑞の話が広がって、参詣人増加。船橋から出茶店が17軒もたつ繁昌となる。 →病院機能に関する奇跡が起って、評判になりはやる。 滝は、ご利益が病院機能なのが特徴かも。他の神仏の場合、富、成仏、除災などのヨウ素がありますが、滝は病気平癒がもっぱらのように感じます。 4。牧の中に、急にそんなものができたので、野馬方役所ともめる。 天和3年(1683)、幕府寺社奉行から、滝不動に在る溜め池を野馬用の溜池にして、別当金蔵寺が管理することという、滝不動の存在を黙認する決裁を受ける。 →公認してもらったというわけ。 5。四間四面の堂をたて、常設茶店が3軒。 →常設施設ができる。 →後に再建されて、このお堂は今はない。 6。50年も経つと、名所として認知される。 享保7年(1722)には、下総牧の絵図に、『このところ滝不動という滝アリ』と書かれる。 寛延2年(1749)『葛飾記』という名所案内記に、記載。 「名高き不動尊、正月28日、7月28日市がたつ、7月には相撲あり。」と記される。 →名所として認知され、組織もできてきて年に2回の祭日もきまり、市も立ち、呼び物の相撲興行も行われるようになった。 →50年でメジャーになったわけですね。 ■ その後の発展: 7。安永10年(1782) 開帳。 記念の石仏が寺門の前にあり。大野八郎衛門、縁起が紛失ということで、現存の縁起を作製。 8。文政8年(1825)。船橋一円41ヶ村で、常夜灯を奉納。 池の近くにあり →地域信仰圏が成立していた証拠 9。文政13年(1830)。縁起を提出。 →公認信仰施設化 10。弘化4年(1847)。別の所に二代目滝を設置(現存の三代目滝の位置)。 最初の滝は弁天池から御滝公園に上がる石段の右にあり今は埋まっている。 →今の滝は3代目ということですね。1代目の位置を確認してないので、誰か教えて。 このことは、天下井氏の本を読んで知りました。行った当時はずっと同じ場所かと思っていました。
大体の滝は、最初神体として信仰が出発するが、信仰が発展すると、滝は神性をその後の信仰施設に取られていく過程が一般である。養老川の高滝(通称・粟又滝)は最初、滝が神だったが、高滝神社ができると、そこに神性を奪われ、今はただの滝なのが好例。 11。嘉永4年(1851)本堂再建。
6間4面。 12。嘉永5年(1852)永代常夜灯 13.安政5年(1858)江戸神田の商人達により、石段奉納。 14。万延元年(1860)籠り堂の修復。道の敷きかえ 15。信仰圏が船橋周辺から、行者の活動によって、東京湾岸に広がる。 文久2年(1862)心蔵が水行。失明した眼が開く、その後行者となり。浦安に神力講を開く。このように、行者が各地で、神力講や御手長講を開き、参詣を行った。特に、東京、横浜にかけての漁師町の信仰を集めた。 祭りには、競馬が行われていた。 16。明治3年 浮世絵(前出)にかかれる。 滝行場の他に競馬、踊り行事が紹介されている 17。明治14年 仁王門建設 ・・・等々 |
|||||||||||||
●その4、古記録から掘り込んだ地下水型の滝とわかります。 滝不動の滝トップに戻る |
|||||||||||||
文政13年筆の縁起によれば、 『・・・当郷より神保往来の端に溜池あり。その辺りにて夜なゝゝ光るもの満月のごとく光明輝くを見つけ、当村中人足を出し滝口より二十間余、深さ二丈ばかり掘り割り見れば、滝口より不動尊まんにとあらわれ、まことに慈覚大師の御作・・・』とあり、最初の滝は、斜面を32m、深さ6mばかり掘って(中で光るものを探すために掘ったら不動様が出てきたということになっているが、本当は、滝の行場を作るためと思います)、滝になったと書いてあります。 最初の滝は、今は残っていないので、掘った数値については、過大ではないかとも思いますが、今となっては分かりません。奥行き32m×高さ6m、幅2〜3mの竪穴を斜面に掘るわけだが、高さ6mというのは、ありうるとして、奥行き32mというのは、もとの斜面の傾斜が、32:6→5.3:1という、超緩やかな斜面の所を掘ったというように思われます。普通、掘り込み型の滝の本来の斜面は、急な所を選ぶので、1:1ぐらいが普通だと思います。 利口で、自然を良く知っていた昔の人が、そんな、事をするわけないので、 1。32m(20間)というのは、文書の誤記 2。32mは正しいが、斜面下部から池からの水路までの水路などの掘り込みも含まれている等の解釈がありえますね。 ただ。6mの掘り込みですから、帯水層から床まで2mぐらいとして、帯水層の上4mぐらいが地表であるぐらいまで斜面を掘ったことは間違いなさそう。 その他の、滝が何故作られたのか、何時作られたのかなどについて、述べられているので天下井氏著『金杉の歴史』から、、『御瀧山不動明王縁起記』と『縁起の考察』を、引用採録させていただきました。お急ぎで無い方は是非ご一読を。 |
●その5。スクープ、改装の時、私は、地質を見た! 滝不動の滝トップに戻る |
|||||||
普通、下総の滝の地質は、人工の石垣の裏に隠されてしまっていて、地質の様子が分からないんですが、この滝は、なんと、旧滝の石垣ぶっ壊して新滝にする工事のときに行き合わせたのです。その時の貴重?な写真。 滝は下総台地の谷津をつくる侵食谷の側壁斜面下部にあるのですが、台地を作る水平な地層の帯水層でなく、谷の斜面の斜面堆積物内を流下してくる地下水が湧いているものと思われます。 ゆえに、地下水の供給域の面積が小さく。かつ、台地上の都市化の影響をうけて水量が急減しているのではと感じました。 それでも、20年前は、チョロチョロでていたが、現在はどうなのでしょうか?。 どなたか、教えて下さらないかなあー。自分で見に行けといわれそうだけど・・。(^_^;) |
|||||||
1979年改装中の写真。 中央にハンマー。先端が地層の境になる。 ハンマーの左に石の樋がでている。ハンマーから下の地層が不透水層。上が帯水層 |
石の樋の拡大。 上の黒く見える層が、谷津斜面の斜面堆積物(関東ロームや基盤の下総層群の砂の崩れ土が斜面に沿って溜ったもの、腐食が集積して黒い)。下の明色にみえる地層は、下総層群のシルト層(だったと思う。記録にちゃんと書いてないんです)。_(._.)_ |
||||||
その6 証言 子供のころ良く遊んだ、ばばっちさんの滝不動今昔のお話し |
|||||||
|
|||||||
高さ:1mぐらいかな。自然の高さじゃないから、意味無いんだけど。 成因:湧水型の滝 滝面:人工 地層:下総層群のシルト層 位置:経度35゜44’09.30” 緯度140゜01’20.59” 船橋市金杉六丁目 金蔵寺(御滝不動)境内、弁天池近く |