<滝不動の縁起と考察>天下井氏の文献による 滝不動の滝トップへ 1。滝不動縁起:B縁起 江戸期に作られたもの →すぐ下 2。滝不動縁起:A縁起 明治期に作られたもの →ほいっとひと跳び 3。縁起の考察:天下井氏の解釈。滝の始まりの解釈 →それっと跳び |
1。資料1 滝不動の縁起:B縁起 江戸時代に作られたもの |
天下井 恵氏著『金杉の歴史』(1983)より、p116-117、引用。 原文書を天下井氏が書き下したものですが、それでも読みにくいので、改行を入れました。逆に、ふりがなががついているのですが、付けられませんでした。 この文書の来歴:天下井氏の考察による。 天和3年(1683)以前 滝行場作成・不動明王発見。 ? 縁起が作られる。→紛失 安永10年(1782) 開帳にあたり、縁起紛失が分かり、大野八郎左衛門が縁起略記を作製 →現存せず。 文政13年(1830) 縁起を幕府に提出。その際の控え、として、安永10年の文書をもとに作製。 明治16年(1883) 大野弥兵衛氏が、年号の注を記入。 昭和31年(1956) 大野春治氏が再発見。金蔵寺に寄贈。 御瀧山不動明王縁起記 (後筆)「天和三癸亥年 此間年数二百一年 明治十六癸未年 大野弥兵衛」 そもそも総州葛飾郡南金杉村不動尊は小金原下野牧付滝の原より出現したもう本尊なり。 その由来をくわしく尋ねるに、当郷より神保往来の端に溜池あり。 その辺りにて夜なゝゝ光るもの満月のごとく光明輝くを見つけ、当村中人足を出し滝口より二十間余、深さ二丈ばかり掘り割り見れば、 滝口より不動尊まんにとあらわれ、まことに慈覚大師の御作(である事がわかり)、その所に鎮座を立て、隣郷近在の者共群集をなし。 然るところに舟橋村市兵衛と申すもの鼻瘡にて、鼻の高さ五六寸程腫出し医術念願のつくせども、その記し是なきところ、 ある夜、滝の不動明王夢の中に表われ、滝不動に七日通夜いたせは忽ち平復すべしと。 夢覚め翌朝に教えのごとく彼の滝に参り、願い奉り終るや、致□へしまんする七日目の朝鼻の病跡かたもなく元のごとく平癒いたし、それより繁昌なを盛なり。 昼夜にわたりて絶えまなく、舟橋村より出茶星十七軒程新宅いたし誠に繁栄の地となり、 あまり繁昌に侯うて小金町御役所より御野馬の滞りにも成るべしやと押とめ侯うて、御支配代官池田新兵衛殿、天和三亥十月御奉行所へ御窺い 寺社月番本田淡路守様当代官へ申渡し、御野馬用水溜に仰せつけられ当地別当金蔵寺へ下し置かれ、 それより金蔵寺にて円間四面に堂を立て堂番を付けおく。 日々に参譜これある故、休茶屋三軒住居いたし侯うところ、 その後無宿久三郎様と申し、大勢にて盗賊悪党の夜働を致し、堂番ならびに茶星まで御成がたく野中のことゆえ住居ならず、ついに居村へ引き込み 今は正月二十八日、七月二十八日ばかり毎年二度宛祭事いまだ忘れず護摩執行これあり。 当代近年に及びても小金領大橋村何某、葛西金町何某、その他二合わん、千寿、本所に至るまで難病癩病を患うものまたこれあり。 今に止む事これ無く参り七ヶ日参籠したもうに、諸願に応じ急に患う所の病悩ことごとく本復したもうなり、ひとしくする所も益御あらずや。 誠に不動明王と拝し奉る出所の跡、大瀧と成り、百日の日照りにも水絶る事なく 当村近在の用水と成り、旱魃年にも水不足なく耕作の助け不動尊の利益なりと。 下総国葛飾郡南金杉村 別当 御滝山金蔵寺 文政十三年 七月日 右の御本尊開建このたび開帳仕り侯うところ、縁起紛失仕り、いささかの御記これあるにつき由来記と名づけ有体を書き記す。急言の段御免。かしこ。 安永十年丑三月十六日 (後筆)「大野八郎左衛門 □和 □久郎 大野氏有」 (注)原文に句読点や助詞を入れ、片カナは平がなにし、読みやすく改め書き下しました。 大軒春治さん(写真)によって昭和三十一年右の縁起は発見され、金蔵寺に寄贈された。 (付図省略)(あまりに、字詰まりになっていたので、適宜改行を入れました。) |
2。資料2 滝不動の縁起:A縁起 明治時代に作られたもの ページ先頭へ 滝不動滝へ |
以下の縁起は、私が、1979に滝不動に行った時に貰った、印刷配布しているものです。 天下井氏の考察(後述)によると、この縁起は、A縁起の系列に属し、もとは明治21年に作製されたもので、境内に昭和40年建立の黄銅板の立札に採録掲載され、一般にはこちらを配布しているようです。 A、B縁起で、いろいろ違いがあり、違う所ではB縁起の方が信憑性が高いということになります。 滝についていうと、 1。作製の時期 B縁起は、天和3年(1683)ごろ。A縁起では、応永30年(1423) 2。発見者 B縁起は、金杉村村民。A縁起では、能勝阿闍梨 御瀧山縁起抄略 抑モ当山不動尊ノ発現ハ紀元二千八十五年 即チ称光帝応永三十年癸卯正月ニアリ 其一夜此所ニ光暉ヲ放チ近郷ヲ照シ継テ連夜エ及ビ事アリ 人々恐怖シ敢テ是ヲ探究スルノ意ナカリキ 時ニ能勝阿闍梨ナル者常陸佐竹義仁ノ招キニ応ジ 越後国ヲ発シ太田沢山ニ来レリ或夜此地ヲ通行シ 例ノ発光ヲ見テ此ニ足ヲ止メ不動法ヲ修行シ 且草庵ヲ結ピテ三七日ノ間護摩ヲ修ス 而シテ或夜夢ニ一高僧告テ曰くク 我一刀三礼刻スル処ノ不動此二埋有ス我ハ乃チ円仁ナリ 能勝覚メテ大ニ感ズル処アリ 翌朝即チ同年七月二十七日 人夫ヲ傭ヒ其場ヲ堀リ以テ一ノ木像ヲ得ル 而シテ其跡穴ヨリ頓ニ清水涌出シ現ニ滝ヲ成ス 依テ其像ヲ洗清シテ視レバ即チ円仁ノ作ヲ記ス 因テ直二小堂ヲ営ミ此ニ木像ヲ安直セリ 而シテ其従者金蔵ナル者ヲ留メ以テ拝護セシメタリ 是御滝山ト号シ金蔵寺卜称スル所以ナリ 傑堂能勝阿闍梨法臘四十八年世寿七十三歳 応永三十四年丁未八月七日示化ス 御瀧山金蔵寺 |
3。縁起の考察:天下井氏による ページ先頭へ 滝不動滝へ |
天下井 恵氏著『金杉の歴史』(1983)より、p128-131、引用。 滝不動の縁起について (考察) 「御瀧山不動尊の歴史」の冒頭、滝不動の始まりで紹介したように滝不動にはいくつかの縁起(寺伝)があり、内容からみると二種類に大別できます。 一つは、寺の始まりを応永三十年(一四二三)とし、能勝阿闍梨が不動尊を発見してい ます。(以下、便宜上この縁起をA縁起と呼びます。) もう一つは百十六ページに紹介した御瀧山不動明王縁起記です。これは前にも述べたように大野春治さんが昭和三十一年自宅で発見したもので、寺の始まりを江戸時代初期とし、市兵衛の鼻の話などがのっています。(以下、便宜上この縁起をB縁起と呼びます) <A縁起は明治の作> 最初にA縁起を検討してみましょう。 この縁起は明治二十一年に書かれたことをつきとめました。 A縁起は滝不動の境内に黄銅板の立札に掲載されています。 これは昭和四十年に東京江東区の信者が寺に奉納したものです。この文章を書いたのは当時檀徒総代の米井悦之助さん(故人)です。米井悦之助さんはこの文章を自分で作ったのではなくすでにあったものをまず下書きとして丸写ししました。次にこの文章を続み直し不都合な部分だけを削除しました。 その部分とは「今ヲ隔ル四百六十五年」の一節で、これは応永三十年(一四二三)の不動尊の発見の年をさしていますので、一四二三に四百六十五を加えてこのA縁起が最初に書かれた「今」は一八八八年(明治二十一年)のことであることがわかります。 米井悦之助さんは昭和四十年に奉納するのだからこの部分は手直しが必要とされますが、境内にたてておくにはこうした今を隔る何年という記述は不要と考えてバッサリ削ってしまったのです。 <A縁起の文書図:省略> 次に縁起の内容ですが、不動尊の発現と金蔵寺の命名の由来を伝えています。 この縁起で一番不自然なのは滝不動と名乗らず、金蔵寺と名乗ることなのです。 というのは金蔵寺は元々金杉にあった寺で明治時代に滝不動の位置に住職はじめ寺ごと引越してきたのです。 つまり御滝山金蔵寺と滝不動とは別物であって江戸時代以前は滝不動は滝不動あるいは御滝山以外の呼び名は無いわけです。 引越したあとの金蔵寺は無住となりましたが寺として残されたので滝不動の金蔵寺と区別するために金杉金蔵寺と呼んでいます。 引越し後も毎年護摩執行を滝不動から本尊、什器一式を長持に入れて運び金杉金蔵寺で盛大に行なってきました。 この引越の時期は明治二十二年かその前年と思います。その証拠ほ明治十二年千葉県が観戦した、「寺院明細帳」です。 これによると金蔵寺の地名は南金杉村字東とあり、はっきりと今の金杉金蔵寺の位置であることがわかります。 この中に次のように朱書されています。「本堂厨所有地等誤記脱落有之二付訂正願出ニ付二十二年八月二十二日許可 浜田」 さてこの明細帳によれは滝不動の一帯は境外所有地山林として届けられています。 また寺の由緒は不詳となっています。 そこで次のように考えられないでしょうか。 明治二十一年金杉金蔵寺は滝不動へ引越しすることに決めました。 それについても役所へ届けたり、寺院明細帳も訂立してもらわなければなりません。 この時、もしきちんとやろうとすれば地名、本堂間数、境内坪数、境外所有地等々全面的に書き換えなけれはなりません。 それがわずらわしかったのか、役所の指示によるものか、寺側の計画かわかりませんが、滝不動が金蔵寺であるというA縁起を作りあげ、最初の届がまちがいで金蔵寺は正しくはもともと滝不動の方だったという「誤記脱落」で、移転についての書類や届けをすましてしまったのではないでしょうか。 この時点では文政十三年に書写されたB縁起が存在していますからそこから不動尊出現の話をとり、さらに能勝阿閣梨という僧を持ちだしてA縁起を創作して、役所へ届出たのでした。 当時金杉金蔵寺には能勝阿閣梨に類した話があったのかも知れません。しかし能勝阿閣梨個人については年月がはっきりしすぎているためどこからか借用してきたものと思います。 <B縁起一覧> 滝不動には現在B縁起と同様内容で異なる時期に書かれたものが他にニつあります。 そこでこのB系統の三つの縁起の表題・書かれた時期・書いた人物・特色を一覧表にまとめました。
この表の中で内容の基礎になっているのが B−一で安永十年(一七八一)に記録したものの写しであることがはっきりしています。Bー二では奥書に、「実物」と断っているのが注目されます。 B−三は年号を新たに書き加えています。 Bー一は当時の檀徒総代の大野弥兵衛氏が保管していたものであるし、 Bー二、Bー三は時の金蔵寺住職が書いたものです。 従ってこのB縁起は現在はあまり知られていませんが、代々金蔵寺で伝えられてきていることがわかります。 <B縁起背景> 安政十三年に書写されたB縁起について検討してみます。 江戸時代の末は信仰に名を借りた民衆の旅行が急増して幕府や諸藩はそれをおさえるのにやっきとなっています。 折しもこの安政十三年には春先から伊勢禅宮へのお陰まいりが爆発的に流行しました。 これを背景に考えた時、 B縁起では第一に、滝不動は別当金蔵寺で管理することが寺社奉行で認められていること、つまり最近になって村人が勝手に作った堂ではないことを強調しています。 第二に、滝不動には確かな霊験があり、その信仰のために人々が集まってくること、つ まり物見遊山で人々が寄ってくるのではないことを強調しています。 第三に、役所や役人に敬称をつけていることなどから恐らくこの年役所から縁起類の提出を求められたのでしょう。 その写しが残されていたと思います。 従って右で強調した点以外は、特に粉飾する必要はなく、時期や盛衰があったことなどは大旨信じられると思います。 B縁起による滝成立のいきさつも村人が二丈(六m)もの穴を掘割ったとあります。 この跡が滝となったというのですから、これは水の湧き出る滞水層の下まで堀り下げて人為的に滝を作ったことを意味します。 つまり滝にうたれる水行の御滝場を建設したと考えられます。 こうした設備を金杉の村人が作った時、それを設計し工事の指導を行なったのは金杉金蔵寺の僧ではないでしょうか。 修験者あがりの僧であるならば、ここで行をしたら、日照の時は村人と雨乞をここでしたことでしょう。 そして不動尊をまつったことから、不動尊を堀りだした話に発展したのでしょう。 この場所は湧水地なので古来からの水源地の信仰とも結びつき易かったと思います。 |
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