開催日20020310 千葉県立中央博物館友の会観察会 ---- 古文書から地形変化を読む---- HPトップへ |
川廻し地形観察会 記録 勝浦市と御宿町の川廻し (作成中) 禁 無断転載 複製 文・画像とも |
川廻し地形について ・・・・長い説明 千葉県立中央博物館 吉村光敏 謹書 |
<もくじ> 川廻し地形とは 川廻し地形の分布 川廻しの時機・開発者・技術 川廻しの地形の種類 Ω型 M型 連続型 R型 林業型の川廻し |
【川廻し地形とは】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上総地方南部の河川には「川廻し地形」という、特徴ある地形が多数みられる。 写真のように、かって曲流ていた川が短絡されて、曲流の跡が水田になっている(今は休耕が多い)地形で、短絡はトンネルや切り通しで人工的に行われた。
川廻しの結果、水田化された旧蛇行跡やトンネルや切り通しを流れる新たな川などの特徴ある地形ができ、これを「川廻し地形」ということにする。 上総地方南部の川は下刻しつつ曲流している貫入曲流の状態にあり、かつ、人工短絡による地形なため、川廻し地形は、あまり類例のない地形である。 |
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川廻し地形の模式図を示す。 図のように、掘り込んで曲流した流路(穿入曲流という)を 人工的に短絡する河川工事である。 目的には、新田開発のための水田開発用とその他の目的(林業・交通用)の場合があり、形態が異なっている。 注)、治水用でそれを水田化したんだという意見がありますが、 治水目的の川廻しは例外を除いて無いと推論しています。 水田用の場合が主なので、それで説明する。 短絡工事の結果できる、中央の島状の部分を、ナカジマ 旧流路で、ナカジマを取り巻く、もとの曲流跡をフルカワと呼ぶ。主に水田が造成されている。 新流路をシンカワと呼ぶ。(藤原,1979)。 シンカワは直線状の切り通しかトンネルであることが多い。 フルカワは以前の曲流した谷の跡が新田として水田化された所で、周囲の斜面の湧水による田になっている。 この川廻し新田は、房総丘陵を特徴づける新田開発の方法といえる。 川廻しはこのような地域性の他に、江戸時代にはじまり、明治時代に大体終了するという時代性のある歴史現象でもある。 現在では川廻し新田は使命を終え、休耕地化したり、埋立や地形改変により消滅しつつあり、旧状を残すものは少なくなっている。 さて、川廻しについては調査が少なく、一般にはほとんど知られていない(注2)。 この短報は、川廻し地形とはどんな地形か地形の特徴を紹介したものである。 先人の残した貴重な近世の遺跡として「川廻し」を理解して頂く助けになれば幸いである。 |
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川廻し地形は、他県では珍しいとしても、上総地方ではありふれた地形である。では、川廻し地形はどこに、どのくらいあるのか、空中写真判読により調査した。 表1 川廻し地形の数(水系別)
川廻しの数は、川廻しの定義次第で違うし、また、後述する連続型川廻しを1個と数えるか、それを構成する複数の蛇行の数にするかによっても数が違ってくる。 今回は、特徴的な地形を示すものに狭く限って定義すると、「川廻しとは、主に上総地方南部の丘陵地を流れる河川で、江戸時代以降、新田開発を念頭において行われた曲流(蛇行)河道の短絡工事」と定義した(注1)。 上に述べた定義により、近年の河川改修の短絡工事は省き、また、連続型の場合は短絡された蛇行1つ1つを数えた。 総数 451箇所で、上総地方南部の川に 447箇所、安房地方の川に 4箇所の存在がわかった。多くみられる川は、夷隅川、養老川,小櫃川の本流及び各支流である(表1)。 これだけ沢山あると、地方的ではあるが、近世の新田開発の一形式であるといえよう。 もっとも、表のように小型のものが多く、1ケ所では、5反〜1町歩の広さしかないので、全部合せても川廻しによる新田の面積は450町歩程度でしょうから、水田面積上ではたいしたことはない。 ただ、上総地方の山間部の村々では、川沿いは平地がなく、散在する河岸段丘面は導水 に困難が多く、川廻しによる新田開発は高度な技術や多大の労働力がなくてもできる、水田増加法であったと考えらる。 |
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では、川廻しを、いつごろ、誰が、どのように、行ったのであろうか。 川廻し地形・新田は古文書によって跡づけられているものが少なく、これらの問にはまだ十分確答はできないが、勝浦市内の川廻しに関する聞き取り調査の結果から、以下のように考えられる。 (1)川廻しの時期、 江戸時代 17箇所 明治時代 5箇所 昭和時代 2箇所 不明 9箇所 川廻しは江戸期と明治期に大部分造成されている。古文書調査を行っていないので、年代の限定できるものは少ないが、江戸前期、江戸時代以前にさかのぼるものはなさそうです。 (2)時期による開発者の違い 明治以降の川廻しと、江戸時代のとは明らかに違った社会条件下で作られた。 明治以降は、河川管理者(県)が、道路建設、洪水対策等を目的として行い、新田開発は従の目的で行われた。そのため、フルカワ新田が払下げられなかったり、シンカワ造成の工事方法、施工について、指導をうけたり、あるいは、工事そのものを県が行ったりしている。地元関係者は、請願していくことで川廻しにかかわっている。 一方、江戸期の川廻しの伝承には、川廻しに関する法的社会的規制の存在がない。他の形式の新田開発についてなら、水の確保、土地の確保、金の工面について利害関係者との利害調整が前提となろうが、川廻しはその点の障害が少なかったようである。 川廻しをしても、川の水量は減らず、新田は湧水田で用水が不要等のことから、他の既存水田との利害がなく、シンカワ部分の土地の手当がつけば可能だったように思われる。 江戸期には、そのような環境下で、近傍の資産家(地元では、「大地主」という語でいわれることが多い)あるいは、シンカワの土地所有者が、手持ちの技術と労働力で(4ー5人程度、クワ、モッコ等)、シンカワの掘削とフルカワの新田開発を行い、その個人所有者となっている。 なお、この事情は、勝浦市内の川廻しが小規模であることによると思われ、大規模な川廻しの場合は、村や区が主体となった開発の例(市原市牛久の中村の川廻し:藤原1979)もある。 (3)川廻しの工法と技術 大部分の川廻し新田は、小規模なものであるが、今の我々が個人の力でやるとして見るとなかなかの大工事である。 平均的な川廻し工事で、成果として8反歩程度の新田を得るためには、最低、トンネル(長さ50〜60mで、幅6〜8m、高さ3m程度ある)か、同規模の切り通しを作る必要があり、4〜5人でやったという話には驚くばかりある。また、シンカワだけでなく、フルカワの盛土、水田造成、排水路の設置、堤防の設置等の工事も多くの労働を要したであろう。 しかし、聞き取りから推測される所では、労働力としては、手持ちまたは、地元の労働力を用い、工具や技術も特に外注することもなく行われたようである。房総丘陵各地にみられる用水路工事などの技術からみれば、技術的には簡単な部類に入ると思えるが、労働量のわりに成果が少ないように感じる。 川廻し地形の種類 へ続く。 |